がじゅまるの樹の下で。

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謎多き百按司墓

2013年10月27日 | ・琉球歴史/文化風景

今帰仁村運天にある源為朝上陸の碑から少し下ると
百按司墓(ももじゃなばか)があります。

その名の通り、百(たくさん)の按司の墓
という意味。

よって一人の墓ではなく、
たくさんの人が葬られていた風葬墓です。

どんな人たちが葬られているのかは諸説あって、

「沖縄拝所巡り300」(比嘉朝進著)によると、


羽地按司
(※=怕尼芝。攀安知のじいちゃん)に滅ぼされた中北山の戦死者の墓


後北山が尚巴志に滅ぼされた時の戦死者の墓



尚巴志王統が滅び、その看守たちの墓



尚徳王の悪政についていけない貴族たちが遁世した墓



薩摩軍の攻撃で戦死した北山看守たちの墓


などで、一時代の一集団の墓ではなく
いくつかの時代をまたいだ墓だろう
とのことでした。

それだけの規模なのです。

漆塗りの木棺や
また三つ巴の施された木棺も見つかっており、
とりあえず、身分の高い人が葬られていることには間違いなさそう。

ちなみにここで見つかった三つ巴は左三つ巴で、
弘治13年(1500年)と書かれていたと「球陽」にあります。

この弘治13年っていうのは単なる言い伝えじゃなくて
ちゃんとそう書かれていたということが
戦前にも確認されているみたいですね。

『琉球の研究』(加藤三吾/1906年)
『沖縄県国頭郡志』(島袋源一郎/1919年)
『南島風土記』(東恩納寛惇)

 

…1500年、尚真がアカハチ討伐した年だ。

百按司墓と三つ巴。。。
謎は続く。。。

っていうか、いまだに大北墓碑の三つ巴が気になる…。

何度も訪れて何度確かめてもやっぱり右↓

やっぱり単なるミスなのか…!?

琉球の三つ巴紋でこの大北墓以外に
右のものって見つけられるんだろうか…。

見たことがある方、是非ご一報を…。


悶々

おっと脱線した

ちなみに百按司墓の漆塗りの木棺は現在は修復され、
今帰仁村歴史文化センターでみることができます

 


『沖縄の拝所300』(比嘉朝進/2005)
『百按司墓木棺修理報告書』(今帰仁村教育委員会/2004)

 


'10.6
に書いた三つ巴を考えるシリーズ、
いまだにこのブログの人気記事にランクイン中…


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