60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

文字の大きさと読みやすさ

2006-02-18 22:49:21 | 眼と脳の働き
 文字を読み始めたばかりの子供は、文字を十分に頭に入れてないので、一文字一文字を確認しながら読むことになります。
 確認のためには文字の大きさが必要なので、視力がよくても読みやすい文字は大きくなります。
 文字が細かいとひとつの文字に集中しきれないし、また文字と記憶との照合がしにくいのです。

 学年があがるにつれ、文字の学習が進むにつれ、すばやく文字の確認ができるようになり、単語の読み取りさらには句や文の読み取りができるようになります。
 句や文の読み取りができるようになれば、一度に目に入る文字数が多くなったほうが読みやすくなります。
 学年があがるにつれ、読書に適した文字の大きさが小さくなるというのは、文章の把握能力の向上によるもので、視力の向上するわけではありません。
 
 高齢者の場合は年をとるにつれ、細かい文字は読みにくくなりますから、大きな活字を求めるようになります。
 これは老眼によるもので、子供のように文字の理解力が足りないということではありません。
 以前に比べれば新聞の活字も大きくなり、ほんの活字も大きいものが増えています。
 なかには大活字本のようなものもありますが、文字が大きければ大きいほどよいというものではありません。
 文字が大きければ、一度に目に入る文字数が少なくなるので、文章の見通しが利かなくなり、理解力は落ちてきます。

 老眼になると近くが見えにくくなるので、つい離して見ようとします。
 そうすると字が小さくなるので見通しがよくなっても判読が難しくなるので、自然に目を凝らしてみてしまいます。
 そうなるとどうしても狭い範囲に注意を集中させるため、視野が狭くなり文章の理解力は落ちます。
 目が疲れるだけでなく、ものの見方まで視野が狭くなってしまいがちです。
 新聞の文字が読みにくくなったら、離して見るなどということをせず、老眼鏡を使って無理なく見ることがまず大事です。
 

はっきり認識できる文字数

2006-02-17 23:53:21 | 眼と脳の働き
 30cmくらいの距離から文字を読む場合、大体2.5cm四方のスペースがはっきり認識できる程度といいます。
 視角にして中心から上下左右に2度から2.5度の範囲がはっきり見え、外側に行くほどぼやけてしか見えないといいます。
 そんなことはない、もっと広い範囲がはっきり見えていると思うかもしれません。
 ところが実際ははっきり見えていると思っているだけで、視線を動かさないで中心から離れたところの文字を読もうとすると案外近くの文字も読めないものです。

 2.5cmというと漢字かな混じり文で大体7文字程度といいます。
 これは文字の大きさを9ポイント程度とした場合のことで、文字の大きさによって変わってきます
 文字が大きければもっと広い範囲が認識できそうなのですが、実際やってみると思ったより狭い範囲しかはっきり見えないものです。

 図の一番上の文字を最初の「視」という文字に視線を向けて、そのまま視線を動かさないで右側の字を読もうとした場合、3文字ぐらいまでしかはっきり形が分からないのではないでしょうか。
 先頭の文字に目を当て、視線を動かさない場合読み取れる文字の数は、文字が小さくなるほど増えてきます。
 それでは文字が小さければ小さいほど、多くの文字を読めるかというとそうは行きません。
 文字が小さくなると輪郭ははっきり見えても文字を見分けにくくなるということもありますが、文字数が増えると見えても把握しにくくなります。
 つまり、見えても脳の処理が間に合わなくなるからです。

 もちろんこれは個人差があることで、誰でも2.5cm四方の範囲しかはっきり見えないとか、7文字ぐらいしか一度に読み取れないということではありません。
 練習をして視野を広げればもう少し広い範囲が認識できますし、文字の数も一度により多くを把握することができます。
 そうすることによって、より文章が理解しやすくなり、また目をつかれさせずにすむようになります。

二点同時視をして視野を広げる

2006-02-16 23:02:26 | 眼と脳の働き
 左側の端から線をたどって右側の端にたどり着くという課題ですが、集中力のテストとして挙げられるのが普通です。
 ほかの線と交わって入り組んでいるため、線をたどっていくうちに少し注意がそれると、すぐ近くの線と混同してしまっていつの間にか別の線をたどったりします。
 たどっている線から注意がそれないように集中しなければならないということで、集中力の問題だとするのです。
 
 混同しないようにするにはたどっている線上の現在地に注意を集中するのが普通ですが、線が入り組んでいるため進んでいくうちに、ちょっと注意がそれたときに、隣の線に打つ足りします。
 このときそれる前の点に戻れればいいのですが、視線を一箇所に集中したやり方で進んでいるとそれる前の点がどこだったか分からなくなります。
 視野を狭くして集中しすぎていると、少し視点をそらされるとそれまでどこにいたかわからなくなるからです。

 図上で赤い点を打ってあるのは、交差点の前で視線を一度とめて、つながっている先の点を同時に見る。
 さらにその点を見ながらその先のつながっている点を同時に見るという風に二点を同時に見ながら進むと言う場合の通過点を示しています。
 先へ進んでいくとき直前の出発点から目を離さないで、次の中継点を決め、さらにそこから先の中継点を探すというふうにしていくと混乱しないですみます。
 一点集中でなく二点同時視するくせをつければ自然に視野が広がるので迷いにくくなるのです。
 視線を線に従って動かしていく方法というのは、一箇所に視線を集中するやり方で、視線が常に動くので線が込み入っているところでは注意が動揺して間違えやすくなります。
 そのため注意を集中しようとして、目を凝らすのですが、視野が狭くなり、柔軟性が鳴くなり、間違えやすい上に目が疲れます。
 注意を分割して二点同時視をするほうが間違えにくく疲れません。

漢字の意味は変わっていく

2006-02-15 23:41:52 | 言葉と文字
 「止」という字は「足跡あるいは人の足」を表す字だったのだそうです。
 そこから止まるという意味に使われたというのですが、進むという意味にも使われた時代があったそうです。
 足は進んだり止まったりするので、両方の意味に使われたとしても不思議はないのかもしれませんが、現代人の感覚では「そうかなあ」といったところでしょう。
 
 「正」という字は「一」の下に「止」がついてできていますが、昔の漢和辞典では「一」は基準線で目標まで届いてぴたりと止まるのだから正義とか正確という意味だとあります。
 また「一」は膝頭で、「正」はひざから下のまっすぐな足の意味で、曲がらない部分で「正す」の意味だという説もあります。
 現在では「正」で使われる「一」は城邑の意味で形は□か○だったそうです。
 つまり、城邑に向かって進撃する状態を表して、戦争し支配することだったそうです。
 もともとは征服の意味が正当化として正義の意味に使われるようになったため、元の意味の字として「征」という字ができたといいます。
 
 漢字はいつの間にかできていたので、製作者がどんなつもりでそのような形に作ったのかはわかりません。
 現代人なら、棒と足でどんな意味だと聞かれて「正しい」とか「征服」とか思いつく人は少ないだろうと思います。
 子供なら「犬も歩けば棒にあたる」と答えたりしかねません。

 「政」もかつては「政は正なり」といって、政治は正義を行うことだとされましたが、新しい解釈は「攵」がムチや棒でうつことから、征服し支配のために攻撃する意味だったといいます。
 「武」も昔の漢和辞典では「戈」(ほこ=武器)を止めるということで、戦争を止めるという意味だと説明されました。
 ところが最近の説では、「止」は足の進む状態で武器を持って進軍する意味であったとされ、逆の意味に解釈されています。

 漢字は一文字が一単語となっているので、表意文字といわれたり表語文字といわれたりします。
 単語というのはどの言語でも形や意味が時代や、地方によって変化するばかりでなく、新しく作られたりもします。
 作られたときはこんな意味だったということは考証で分かる場合がありますが、その後変わった意味で使われたというのも事実です。
す。
 もともと連想を使って作られた文字なので、いつでも新しい解釈が出てきて流行したり、新しい文字の形ができたりする可能性はあるのです。

 

文字の形も意味を作る

2006-02-14 23:09:34 | 言葉と文字
 藤堂明保「漢字文化の世界」にある例です。
 単に音を表していて意味がないとされていた漢字の部分にも意味があるという説です。  「主」という字の「、」の部分はじっとひと所にたって燃えている灯心で、「主」は燭台と灯心でまっすぐひと所に止まっているという意味があり、主という文字を部品として持つ字には音だけでなく意味的にも共通点があるとしています。
 「主」という部分が単に音だけを示しているならば、同音の語の意味を知っていなければどんな意味の文字なのかはわかりません。
 ところが「主」の上のような意味を頭において文字が作られたとすれば、文字の意味が見るだけで推測できるというのです。
 
 柱、住、駐などはそういわれればそうかなと思いますが、注となると少しつらいところがあります。
 燃えている燭台と水の組み合わせではじっとひと所に注ぐといわれても違和感があります。
 註釈の意味の註ともなるとさらに苦しくなります。
 注は続けるという意味だとする説もあり、この方が妥当な気がします。
 註のばあいは著と同じであきらかにするという説があります。
 「主」のついた文字はすべて同じ意味を含んでいるとすると、すっきりしそうに見えますが、こじつけめいた感じも出てきます。

 この種の説明は、言葉の意味から文字を作るというよりも、文字の形から意味を解釈しようとするものです。
 言葉としては「住む」とか「柱」といった言葉のほうが燭台などより古いはずですが、造字の段階では燭台が先になったため、文字から意味を考えるという転倒が起きたのでしょう。
 もともとあった言葉を文字という形にしようとする場合、アルファベットなら音を写せばよいのですが、漢字の場合は部品自体がが意味を持っていたりするので、出来上がった文字の解釈はさまざまです。
 文字を見ればその部品からいろいろな連想が可能なので、作られたときの意味とは違った意味が考えられる可能性が十分にあります。

マンガ的字源説

2006-02-13 23:42:01 | 言葉と文字
 漢字はなぜこのように書くのかという字源についての説明は、大きな漢和辞典には解字という形で載っています。
 それとは別に一般向けの漢字解説本には上手のような説明が出ていたりします。
 東という字は日が木の間から見える方角だから、日・木で、日が木の間にはいる形で作られたなどといいます。
 また、親という字は左側が木の上に立っていることを表し、右側は目・人で親が木の上に立って子供をよく見ていることをあらわしているという説明です。

 漢字典にはさすがにこのような説明はありませんが、こういう説明も結構説得力があって、信じている人も多いようです。
 木の間から日が見えるなどというのは実際にあるかどうか、ちょっと考えてみればこじ付けだということが分かります。
 東という方角の文字を作るときに考えられたとするには無理があります。
 「木の間に日がはいる方角はなんだ」というクイズの答えが東というわけで、いわばマンガ的な説明です。
 
 親が木の上に立って見ているというのも苦しい説明で、「木の上にたって見ているのは誰か」という謎がけの答えが親だということになります。
 今はやりの右脳がはたらけばこういう答えが出てくるというのかもしれません。
 木の上に立って見るといえば猿とかフクロウとかのほうがふさわしいし、親が子供を見守るのに木の上に立つ必要はないだろうと常識的には考えられます。
 
 これらは無理筋の説明ですが、字を覚えるための記憶法としてならがかえって有効なのですし、連想ゲームのような説明は案外無意識の説得力を持っています。
 阿辻哲次「漢字の字源」には甲骨文字の字形解釈を吹き出しの部分が空白になったマンガに適当なセリフを入れるクイズのようなものだとたとえた先生がいたことが紹介されています。
 甲骨文字の解釈ではなく、普通の文字でもろにクイズ的解釈がまだ行われているのです。

 この話がヒントになったのかどうか分かりませんが、マンガの吹き出しは漢字のルビのようなものだという人があります。
 マンガ界のひとにはこの説が妙に説得力があるらしく、結構引き合いに出されているのですから面白いものです。
 マンガを漢字に結びつければ、何か理論付けか、あるいは権威付けができそうな感じがするので、冗談をまともに受け取ってしまったのでしょうか。

表意文字の造字法

2006-02-12 21:33:12 | 言葉と文字
 シュメール語の表意文字は形は漢字とは全くことなるのですが、造字法には共通性が見られるとのことです。
 図は小林登志子「シュメール 人類最古の文明」で紹介されているもので、京大教授であった中原与茂九郎氏が、中国の「説文解字」による漢字の分析法を応用してシュメール文字を解析した例です。
 象形だけでなく会意、指事、形声,仮借、転注などの漢字の分類法がシュメール文字にあてはめられています。
 「説文解字」は字形の成り立ちを説明することで、意味を明らかにしようとするものですが、漢字ができ始めてから2000年以上もあとになって作られたものです。
 したがって、後から分析したものなので、当てはまらない例があるとはいえ、大体当てはまるとして説得力を持ち続けてきたものです。
 
 シュメール文字は表意文字だけでなく表音文字も併用していたので、漢字のように膨大な文字を作ることはなかったのですが、表意文字の造字法が似ているというのは面白いものです。
 表意文字というと象形文字しか考えられない欧米人には考えにくい造字法を、漢字をよく知っている日本人学者だからこそ考え付いたのでしょう。
 
 造字法という点では漢字とにているシュメール文字ですが、表意文字の部分は漢字のように増殖発展することはなかったようです。
 表音文字のほうは周囲の言語に借用され長い寿命を保ったということですが、表意文字は消えてしまっています。
 表意文字として周辺の言語に影響を与えながら存続したというのは漢字だけのようです。
 
 

日本人に向くシュメール文字

2006-02-11 23:12:03 | 言葉と文字
 小林登志子「シュメール 人類最古の文明」で紹介されている世界最古の文字とされているメソポタミヤの「ウルク古拙文字」といわれるものです。
 トークンというのは直径2cmmぐらいの粘土製品で、図のような形をしていて、メソポタミヤの古代遺跡でおびただしく出土されているそうです。
 
 トークンは素焼きの入れ物に入れられ、入れ物の表面には「トークンの押し印跡があったことから、これらのものは物質管理のための筆記用具ではなかったかとまず推測され」、古拙文字というのは粘土板にこの粘土製品を押し付けてできたのではないかとされています。
 ものの数量を管理するのに、小さな粘土製品を物を表すものとして使ったのですが、すっかりものの形をまねるのではなく、なんであるかを連想させる表現になっています。
 古拙文字は絵文字といわれるようなものであっても、すでに写生的な絵ではなく抽象化され、記号化しています。
 文字は絵のように物に似せて作られ、誰が見ても何を表しているか分かるというわけではないのがこの例でも分かります。

 古拙文字の線が直線的になり、より抽象的な形になったのがシュメールの楔形文字です。
 古拙文字は表意文字だったのが,楔形文字には表音文字も加わっているそうです。
 シュメール語を表記する楔形文字は日本の万葉仮名のように文章の中で、表音文字と表意文字を使い分けるそうです。
 なにか漢字かな混じり文のようなイメージです。
 また、シュメール語の文字数は600ぐらいなので漢字のことを考えれば日本人にとっては覚えやすいとのことです。

 シュメール文字は漢字に比べればはるかに少ないのですが、表音文字を加えたせいなのか、あるいは使われる場が限定されていたせいなのか分かりません。
 古拙文字のほうは表意文字で1000ぐらいあったということですから表音文字ができて文字数が減少しています。
 表意文字の造字が漢字のように増加しなかったのは、文字をあつかう階層が限られていて、文字文化が繁栄することができなかったのかもしれません。

システムのある図形語

2006-02-10 23:00:27 | 言葉と文字
 チンパンジーは人間の音声語は無理なので、視覚によってしか言葉を教えることはできません。
 図はアメリカの「ヤーキーズ霊長類研究所」で使われた図形語の例です。
 図形は単語に似せていないので象形文字ではありませんが、単語の意味を指しているので、表意文字です。
 この図形語はひとつの単語にひとつの図形が対応しているのですが、図形はでたらめに作られているのではありません。
 左側にある10個の要素(デザイン.エレメント)を一定の規則で組み合わせて作られているのです。
 たとえば飲食物は赤い台紙に描かれ5番目の○が使われ、、食べ物は6番目の黒丸が使われるが、飲み物には使われないといった具合です。
 ちょうど漢字に偏とか旁があったりするようなもので、規則をのみ込めば単語の意味を記憶したり想いだす手がかりになります。

 図形を記号として意味と結び付けて覚えるということはチンパンジーでもできるのですが、でたらめの図形でなく、規則に従って作られた図形のほうがチンパンジーの倍も覚えやすかったかどうかは分かりません。
 ただエジプト文字にしても、メソポタミヤの楔形文字にしても、表意文字であるが図形要素を規則的に組み合わせています。
 図形要素によって言葉を分類して意味を連想させるという方法が表意文字の場合は使われているのです。

 表意文字といっても読むことができるためには音声と結び付けなければならないので、音声を示す部分を持つものが多くなります。
 表意文字は表音文字より文字数がはるかに多くなるので記憶に負担がかかりますが、音声を示す仕組みや、意味を連想させる仕組みを組み込んでいるので成り立っているのです。
 表音文字の場合は音声と結びつけるのは比較的容易でも、意味を連想させる仕組みが弱いのでこの面では表意文字より記憶に負担がかかります。
 表音文字のほうが簡単とか、優れているとは必ずしもいえないのです。
 

象形文字は意味を連想させる

2006-02-09 23:21:24 | 言葉と文字
 ジャン.カルヴェ「文字の世界史」は、古代文字の類似性というのは偶然的であるとしています。
太陽を表す象形文字として、エジプト、中国、アステカの例を示されれば、どの文明でも似たような文字を作るのだといわれても、ついそうだと思ってしまいます。
 しかしヒッタイトやマヤの例を出されれば「どこでも同じではないな」と気がつきます。
 さらに水の例ではエジプトは波の運動の側面図、中国は水の流れ、アステカは色(青色)と貝に着目し、容器で表している、と説明しています。
 象形文字だからといって、どこでも人間は同じ表現をするわけではなかったということが分かります。

 太陽の例などは「日」という漢字の元の象形文字を見たとき、現代の日本人の感覚にはなじまないものなのですが、これをもとにして「日」という漢字が生まれたと説明されればそんなものかと納得してしまいます。
 これは、象形文字を見れば太陽だと思うのではなく、これは太陽を表しているのだといわれると、太陽を連想することができるということなのです。
 水の例でも、説明されればそのようにイメージできるようになる、つまり連想が働くようになります。

 象形文字は絵文字のように描画技術が必要なほど写実的ではなく、ものの特徴の一部を示して、意味を連想させます。
 漢字は表意文字といわれますが、意味を表すというよりも意味を表す言葉を連想させる文字です。
 木という文字は形で木を連想させ、森という字は木が沢山集まっているということで「もり」を連想させるといった具合です。
 象形文字だけでなく、会意文字、形声文字など、いずれも連想によって意味を示そうとしています。
 漢字は「どうしてこのように書くか」という説明がよく見られますが、論理的な説明というものはありません。
 すべてこのように連想によって解釈できると言う説明です。
 しかも後付によるこじつけの説明も結構あるようです。
 それでも意味があっていれば、連想によって意味を記憶できるのだから、それはそれでよいのかもしれません。
 受験のときの歴史の年代を覚えるのに語呂合わせを使うのと同じようなものだからです。