60歳からの視覚能力

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4枚カード問題2

2006-02-26 21:38:52 | 視野とフレーム
 ①はシアーズ問題というのを変形したもので、「5万円以上の伝票は主任が裏にサインする」という規則があるとき、裏返して確認する必要のあるものはどれかというものです。
 この問題の正解は表が¥88000の伝票と、裏にサインのない伝票ということで、ほとんどの人が正解するそうです。
 形式論理では、「5万円以上→裏にサイン」なら「裏にサインがない→5万以下」だから1枚目と4枚目をめくればよいということになります。
 そうすると、普通の人も形式論理を使って正解するように見えますが、これは抽象的な例でなく経験に即した具体的な問題だからだとも考えられます。
 
 ところが、この問題は解釈によって正解は違ってきます。
 5万円以上ならサインするという規則があるとき、形式論理では5万円以下のときサインしていてもかまわないので、2枚目と3枚目はめくる必要がないとしています。
 しかし、実務上はそれでは困るのです。
 たとえば主任が3万円以上ならサインすると思い込んでいれば「5万円以上にサイン」という規則が乱されているということになります。
 この場合(イ)サインをネグっていないか(ロ)基準額を間違えていないか、のどちらを調べるかによって正解は変わってきます。
 つまり、問題をどのようなものとしてとらえるかということを抜きにして問題の解法を知っているかどうかを評価しても仕方がないのです。

 ②は「20歳以上なら酒を飲んでよい」という規則が守られているかどうか調べるにはどれをめくればよいかという問題です。
 この場合もほとんどの人が「20歳未満が飲んでいるもの」と「ビールを飲んでいる者の年齢」を調べるということで、2枚目と3枚目を選びます。
 多くの人が正解する理由は形式論理を使うからではなく、「やってよい」とか「やってはならない」といった許可や禁止という日常生活ルールを適用するときの考え方をするからだといいます。
 「法律上、未成年は酒を飲んではいけない」と現代の日本の社会では理解されているので特に考えなくてもこの問題は正解できるのです。
 「20歳以上ならよいといって、20歳未満については述べられていないけれども、20歳以下は禁止ということが分かっているからです。
 
 普通の問題は自然言語で表現されていて、論理学で使われる言葉とは同じではありません。
 論理学的な形にすると何か変だなとか、問題が単純化されすぎているとか、すりかわっていると感じたりします。
 論理学の場合は示されている文字通りの意味だけで推論し結論が出るようになっていますが、日常問題では問題の前提とか目的とかを考えないと意味のある解決は得られません。
 したがって形式論理だけで日常的な問題が解決されるケースは少なくなります。

4枚カード問題の問題

2006-02-26 00:07:48 | 視野とフレーム
 「表がKならば裏は偶数である」という規則が成り立っているかどうかを調べるには,最低どのカードとどのカードをめくったらよいか。
「4枚カードの問題」という心理学や論理学などで見かける問題です。
正解は「K]と「7」をめくるというのですが、「K]と「4」と答える人もいます。
 「表がKなら裏は偶数である」ということは「裏が奇数なら表はKではない」ということなので「K]と「7」をめくるのが正解と考えるべきだと論理学ではなっています。
 この問題の正解率は20歳代と比べると40歳代はかなり低くなるとかで、年をとると推理能力が落ちてくるなどといわれています。
 ソンナふうな事を聞けば答えを間違えた人は、「年のせいで考える力が落ちたのかな」などと落胆するかもしれません。

 市川伸一「考えることの科学」によれば、大学生を対象にして正答率を見ると欧米の場合は10%足らずで日本の大学生は文科系で30~50%、理科系で70~90%だということですが、高校数学で形式論理を勉強した影響があるかもしれないとしています。
 そういわれれば40歳から正答率が低くなるのも形式論理を習わなかっただけで考える力が落ちたとは限らないのかもしれません。

 それはそうとして、この問題を間違える人が多いのはなぜなのでしょうか。
 人間は勉強しなければ論理的に考えることが難しいということなのでしょうか。
 常識的に考えるということは非論理的で、間違いが多いということでしょうか。
 
 ②は同型の問題の内容を変えたもので、「両親が天才ならば、子供は天才である」ということが成り立っているかどうかを調べるにはどれとどれをめくればよいかという問題です。
 普通の人は「天才両親」と「天才少年」をめくるでしょう。
 形式論理なら「天才両親」と「凡才少年」をめくるのが正解ということになるはずなのですが、「ヘンダナ」と思うはずです。
 「凡才少年」をめくれば大抵「凡才両親」となるはずですから、この法則が否定はされなくても確かめる有力材料とはいえません。
 「天才少年」をめくってその裏が「天才両親」であれば、やはりそうかと思うし、「凡才両親」であれば、そういうこともあるかと思う程度です。
 「両親が天才であれば子供は天才」というような法則を(もしあるとして)確かめる場合、実例を探すのが普通で、凡才の両親が凡才であるという例をしらみつぶしに探すというようなことはしないでしょう。

 「タバコをすいすぎると癌になる」ということを確かめるという場合でも、「タバコをすいすぎている人」かあるいは「癌になった人」を調べるのが普通で、「癌になっていない一般人」を調べることはないでしょう。
 普通何らかの法則が成立するかどうか確かめるときは、まず実例を探すもので、該当しない例を一つ一つあたるというようなことはあとまわしです。
 詐欺は特殊な実例をあげてさも一般的なことのように信じ込ませようとするのが常套手段ですが、新しい法則や規則の発見が実例のを確かめることから始まることが多いのも事実なのです。