漢字はなぜこのように書くのかという字源についての説明は、大きな漢和辞典には解字という形で載っています。
それとは別に一般向けの漢字解説本には上手のような説明が出ていたりします。
東という字は日が木の間から見える方角だから、日・木で、日が木の間にはいる形で作られたなどといいます。
また、親という字は左側が木の上に立っていることを表し、右側は目・人で親が木の上に立って子供をよく見ていることをあらわしているという説明です。
漢字典にはさすがにこのような説明はありませんが、こういう説明も結構説得力があって、信じている人も多いようです。
木の間から日が見えるなどというのは実際にあるかどうか、ちょっと考えてみればこじ付けだということが分かります。
東という方角の文字を作るときに考えられたとするには無理があります。
「木の間に日がはいる方角はなんだ」というクイズの答えが東というわけで、いわばマンガ的な説明です。
親が木の上に立って見ているというのも苦しい説明で、「木の上にたって見ているのは誰か」という謎がけの答えが親だということになります。
今はやりの右脳がはたらけばこういう答えが出てくるというのかもしれません。
木の上に立って見るといえば猿とかフクロウとかのほうがふさわしいし、親が子供を見守るのに木の上に立つ必要はないだろうと常識的には考えられます。
これらは無理筋の説明ですが、字を覚えるための記憶法としてならがかえって有効なのですし、連想ゲームのような説明は案外無意識の説得力を持っています。
阿辻哲次「漢字の字源」には甲骨文字の字形解釈を吹き出しの部分が空白になったマンガに適当なセリフを入れるクイズのようなものだとたとえた先生がいたことが紹介されています。
甲骨文字の解釈ではなく、普通の文字でもろにクイズ的解釈がまだ行われているのです。
この話がヒントになったのかどうか分かりませんが、マンガの吹き出しは漢字のルビのようなものだという人があります。
マンガ界のひとにはこの説が妙に説得力があるらしく、結構引き合いに出されているのですから面白いものです。
マンガを漢字に結びつければ、何か理論付けか、あるいは権威付けができそうな感じがするので、冗談をまともに受け取ってしまったのでしょうか。
それとは別に一般向けの漢字解説本には上手のような説明が出ていたりします。
東という字は日が木の間から見える方角だから、日・木で、日が木の間にはいる形で作られたなどといいます。
また、親という字は左側が木の上に立っていることを表し、右側は目・人で親が木の上に立って子供をよく見ていることをあらわしているという説明です。
漢字典にはさすがにこのような説明はありませんが、こういう説明も結構説得力があって、信じている人も多いようです。
木の間から日が見えるなどというのは実際にあるかどうか、ちょっと考えてみればこじ付けだということが分かります。
東という方角の文字を作るときに考えられたとするには無理があります。
「木の間に日がはいる方角はなんだ」というクイズの答えが東というわけで、いわばマンガ的な説明です。
親が木の上に立って見ているというのも苦しい説明で、「木の上にたって見ているのは誰か」という謎がけの答えが親だということになります。
今はやりの右脳がはたらけばこういう答えが出てくるというのかもしれません。
木の上に立って見るといえば猿とかフクロウとかのほうがふさわしいし、親が子供を見守るのに木の上に立つ必要はないだろうと常識的には考えられます。
これらは無理筋の説明ですが、字を覚えるための記憶法としてならがかえって有効なのですし、連想ゲームのような説明は案外無意識の説得力を持っています。
阿辻哲次「漢字の字源」には甲骨文字の字形解釈を吹き出しの部分が空白になったマンガに適当なセリフを入れるクイズのようなものだとたとえた先生がいたことが紹介されています。
甲骨文字の解釈ではなく、普通の文字でもろにクイズ的解釈がまだ行われているのです。
この話がヒントになったのかどうか分かりませんが、マンガの吹き出しは漢字のルビのようなものだという人があります。
マンガ界のひとにはこの説が妙に説得力があるらしく、結構引き合いに出されているのですから面白いものです。
マンガを漢字に結びつければ、何か理論付けか、あるいは権威付けができそうな感じがするので、冗談をまともに受け取ってしまったのでしょうか。