考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『ウェブ時代をゆく』

2007-11-11 19:20:51 | ◎読
結局、梅田望夫のWEB3+1部作はすべて入手することとなった。本来であれば、そのオプティミズムに対し、自分のなかでなんらかの批評がうまれてしかるべきなのだけれど、その圧倒的なオプティミズムにほだされているのか、ネガティブにとらえる意味があまり発見できない。彼の発信は、どう考えても、刺激的なのだ。

ぼくは、ちょうど『ウェブ進化論』が発行された直後に、以下のようなことを書いている。

『さて、当の『ウェブ進化論』はどうかというと、すでに多くのところで語られていることだと思うが、語られていることの多くが、いわゆるITの文脈にはみえないというところがポイントかもしれない。まだ、ブログあたりの章までしか読んでいないので、確定的なことはいえる立場にはまったくないし、うまくキーワードを提起することもできないんだけれど、これを読んでいて「生き方を考えてみる」といったような言葉が浮かんできた。ただし、それは同書で書かれているようなインターネット/ウェブとの緊密な暮らしを盲目的に信奉するということではなく、それもあるしこれもある、というリテラシーをより強めていかねばならない、といったほうが近いのかもしれない。』

その後、梅田は、あっという間に、まさにウェブ時代の「生き方」について、さまざま角度から提言を行い、人々の心に実行力を行使するマスター・ヨーダとなっていった。『ウェブ時代をゆく』は、その思想を集成したまさに経典となっており、3+1部作のなかではもっとも重要なつくりになっている。いまはウェブになんらかのかかわりを持つものだけの教典に過ぎないのかもしれないが、今後、5年10年の間に(梅田の言うところの中間層1千万人にとって)確実に物事の中心にウェブ/インターネットが置かれる時代がくることを考えると、かなりのあいだ、通用する汎用性の高いテキストになっていくと思える。梅田自ら「福澤諭吉の『西洋事情』と『学問のすすめ』が対になった存在であるのと同じ意味で、ウェブ時代の意味を描いた『ウェブ進化論』と対になった「その時代に生まれる新しい生き方の可能性」をテーマとした本を、いま時をおかずに書かなければと思ったのだ」と、やや大きく出ているが、これは許容してもいいんじゃないかと思える譬えだ。

概念としてより精度の高まった「高速道路」や、「けものみち」、「ロールモデル」といったキャッチーなコンセプトは、ほかにまかせるとして、ここでは「クリエイト」と「学び」という部分に関して、備忘しておきたい。

マーケティング的には、まことしやかな潮流として、また便利な理屈として「モノからコトへ」と語られることが多い。確かに、人は少ししか差異のないモノを買い増したり買い改めたりすることに食傷しているし、所有することの無意味性やマイナスに気づき始めており、「モノ」の時代が終わりつつあることは実感としてもよくわかる。しかし、その先の「コト」とは何か?という問いになると、途端に勢いがなくなる。そこにも、たとえば「物語(ストーリー)」といった便利な概念があるにはあるのだが、じゃあ人は、エンターテイメント・サービスではなく耐久消費財においてもストーリーを買っているのか?といわれると話はかなり限定的になる。
そこに出てくるのが「クリエイト」である。人は「モノ」の代わりに何を求めるのか?その答えが「クリエイトすること」である、というのはかなり納得できる。

『「ウチの子どもたちを見ていても、具体的なモノを買いたいという欲求は最近あまりない。(中略)じゃあ何を面白がっているかというと、何かをクリエイトすることかな、と思う。YouTubeのビデオやブログだけじゃない。(中略)これまで自分一人の力では手の届かなかったものに、なんらかの力を及ぼせる、その手ごたえがある。彼らはそれに熱狂しているのだ」』

梅田の言説ではなく海部美和のブログからの孫引きであるが、このことは総表現社会へのパスがますます広く拓かれている/いくことを明確に示している。もし、そういった人たち(中間層1万人)が増加すると、やはり経済の構造は変わっていく。という以上に、世に様々な表現物が溢れてくるというなんとも楽しい状況が見えてくる。自分も創るし人の創ったものに対してあれこれ意見を交換する(与太をとばす)という過ごし方が日々の生活においてプライマルになるとすれば、これほどの(小)確幸はない。「経済のゲーム」というインフラがないと「知と情報のゲーム」は空転するだけはないかという考えもあるが、たとえば人がクリエイトすることをサポートするところに、スモールビジネスは確実に存在するわけで、うまくはいえないが共同体型の互酬の気持ちのよい商売も生まれてきそうな気もする。
いっぽうで、いまなにかを「クリエイト」するような仕事に携わっている人は、「クリエイト」のコモディティ化に、かなり危機感を感じておく必要があるだろう。いきなり大きなトレーニングは無理だとしても、たとえば「ブログ」「デジカメ」「ムービー」といった程度のスキルはごく当たりまえのものとして、高度に備えておかなければならないだろう(自戒をこめて)。

そこから考えると「学び」が、世界を気持ちよく過ごしていくためにも重要になってくる。これが二つ目の備忘である。『ウェブ時代をゆく』は、いってみれば全編を通じて「この革新的で、垣根のないフレームを前にして、学び続けよ、そして考え続けよ」と唱えているテキストである。ただし、強要ではない。「学び」を怠らなければ、世界は何十倍にも楽しくなる可能性を持っているということをそしてその可能性のパタンを、ていねいにいくつもの事例を積み上げながら教えてくれているのだ。「群集の叡智」において、なにかひとつでも存在感を残しておける技術と思想を学んでおいたなら、暮らしとキャリアが、ある日突然大きく変わるかもしれない。そんな未来への期待も持たせてくれる。このことは、残りの人生のほうが確実に短くなってしまった私のようなロートルにも大きな刺激となる。

もし、ひとつ慎重に考えなければならないことがあるとすれば、「クリエイト」と「学び」が、つまり「知と情報」が、新しい時代において、旧時代のようなエスタブリッシュメントになりうる可能性もある、ということだろう。新しい時代において、新しい形のエスタブリッシュメントになるなら、なんら問題はないのだが、そのためには、やはり「哲学」と「文学」が永続することが重要になる。

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