考えるための道具箱

Thinking tool box

◎たとえばこんな小説ならどう?―『こちらあみ子』今村夏子

2011-06-15 23:34:21 | ◎読
[A]たしかに「あみ子」は愛おしい。恐怖や悪意はひらりとかわされ、すぐに忘れられてしまう。世の中には楽しいことが多いし、工夫のしがいがある。おかしもおいしいし、TVもおもしろい。そんなふうにばかり考えているあみ子は健気だ。

[B]しかし、このあみ子の世界を現実的な視座から見渡すなら、いうまでもなく非情で悲惨な毎日の連続である。きっと平野啓一郎の言うようにだれもが「まず医療や社会福祉を通じての救済を考えるだろう」。あみ子が覚えているかぎりの家族の来歴においてすら、犯罪といっても過言ではない社会的病理のオンパレードである。実際に、無垢なあみ子の目を通じてすら、最悪の暴力は漏れだしてしまう。

<父が布団をかぶって眠る母を一度見た。「お父さん?」それからあみ子に近づいてきた。右腕を伸ばし、その先の手のひらで父はなにも言わずにあみ子を押した。左の鎖骨あたりをとん、もう一度同じ場所をとん、とやられたら、体はもう両親の寝室の外にあった。>

これはキツい。断言するが親が子に絶対にやってはいけない暴力である。たんなるフィジカルコンタクトであるだけでなく、疎隔の申し渡しなのだ(実際にこのあと家族は解体する。それも「引越し」という希望のある言葉に洗浄されて)。どれだけあみ子のフィルターでぼかそうとしても、そしてその意味は決してあみ子には理解できなかったとしても、事実は表現を抑制できない。
だから、平穏で幸福にみえるあみ子の現在は、私たちの現実の目からみるとかなり残酷なものに違いないし、未来になんの展望もない。確実に助けが必要である。

[A]でも、ほんとうにそうなのだろうか。虚構上のファクトとしてあげられたあみ子の日常だけ、まさに「それだけ」をみたとき、あみ子はとても幸せそうだ。嫌なことは1日たてば忘れてしまえる世界。わからないことはわからないとスルーできる世界。すべての隣人を好意をもって迎えられる世界。他者との本質的なかかわりから隔絶した世界はこれほどまでに心地よい、とも捉えられる。手を差し伸べることで、この世界が壊れゆく可能性があることは否めない。「どういう名であれ、人々が現実に幸福な社会ならいい」という考えに沿うなら(見田宗介)、この小説の表層におけるあみ子の捉え方は正しい。この幸福は、これはこれで尊重しなければならないという観点で正しい。

[B]ただし、(話がジグザグで申し訳ないが)もちろん彼女の幸福感を免罪符に蓋を閉じてしまうことは、社会(市民)的に正しいわけはない。

[C]が、そもそも[A]と[B]を比べる以前に、[A]にしろ[B]にしろ、『悲しき熱帯』で立てられた問題に通じる不遜と傲慢だ、という発想もあるかもしれない。愛しいとか切ないとか[A]、救わなければ[B]、なんて、いったいどこの誰の立ち位置なんだろうか(これはちょっと高度な問題。『こちらあみ子』後半に登場する男子の対応が近いのかもしれない)。

正義は、[A]か[B]か。それとも[C]か。そしてそれは善か?小説の技術が巧みなため、軽くさわやかに見えてしまうこの小説は、やっかいで深い問題をこっそりわたしたちの前に立てた。そして、立てるだけではなく、物語をつむぐプロセスにおいて、おそらく無意識のうちに問いへの回答のヒントも提起した。これこそが『こちらあみ子』の非凡なんだろう。

[D]そのヒントは「好きなように生きな。でも何かが損ねられたら私が助けてあげるよ」、という全人的で他我的な語り手の立ち位置である。この悲惨な小説が安心して読める理由もここにある。もちろんすべてを与えることなど肉親でなければできないし、肉親であっても危ういのはこの小説でもあきらかだ。口ではいえるけれど、いざ問題に直面したときに敢然と立ち向かえる人間なんてだれもいない。きっと、この語り手だってそうだろう。あくまでも小説内のジェスチャーに過ぎないかもしれない。
この非現実な夢想をどうみるか?語り手(作者)には、社会的弱者を見る目が足りないとみるのか?それとも、ここに救済のための、ひとつの「目標値」が打ち立てられたとみるのか?

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この「立ち位置により正義は変わる」「善意は偽られる」という構造は、単行本に併録されている『ピクニック』でも貫かれている。

[B]言うまでもなく『ピクニック』は、ルミ「たち」の七瀬さんに対するひどい「集団」イジメの話である。しかも、複数形で首謀者をあいまいにしてしまう、典型的にタチの悪いイジメの話である。七瀬さんを他者と認めているのは唯一「新入り」だけであって間違っても、ルミたちが七瀬さんを新入りから守っているという構図なんかではない。暇つぶしの手なぐさみがいなくなってしまわないように、新入りに「余計なことをするな、空気読め」と凄んでいるだけなのだ。

[A]これを、たとえイジメられていても集団のなかで承認を受けることがその人の生きる力につながる。人とのかかわりが楽しいならそれは「仲間」だよね、と見るのが、『ピクニック』のsurfaceである。実際に、愚人の七瀬さんは、(まるで自らの意志で続けているかのように、誰も手伝わない)ドブさらいを楽しむ。(犬に与えるご褒美のように投げられた)ピーナッツをおいしいと喜ぶ。(嫌がらせのような)誕生日プレゼントを嬉々として受け取る。

[B]じつは、ルミたちの笑顔が嘲笑であるということに、気づかすに/あえて気づこうとせずに。

七瀬さんがいいんだからそれでいいじゃん[A]という考え方もあるし、もはやそうとはいえないほどの悪意(いじめ)を糾弾することで社会正義を問うべきだ[B]という考え方もある。もっとも『ピクニック』においては、七瀬さんは最終的には不全におちいるという点で必ずしも[A]というわけでもないし、彼女の抱える問題は(他者に実害をあたえる可能性のある)虚言癖であるため、ルミたちの行為は懲罰・矯正であり必ずしも糾弾すべき悪意ではないという[B]を横滑りさせる考え方もあり、答えを簡単には記入させてくれない。『こちらあみ子』と同様に、十分に議論が必要なテーマである。多勢が「ひとかたまり」になってしまい楽しむピクニックを中止できるのは誰なのか?サンデル教授ならうまく解説してくれるのだろうか?

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2つの小説において、何かを書かないことで、悪意をカモフラージュするその表現技術・計算は入念である。きっと、今村夏子は、悪意の本質がよくわかっているのだろう。場合によっては体得されたものかもしれない(イジメっ子の一方的な証言などから)。カモフラージュされた悪意を見抜くスキルの逆算が表現のスキルを向上させたのかもしれない。視点を変えよ、つねに言葉を疑え、という誰かのささやきにみちびかれて。

わたしたちは言葉と物語の中に生きている。そして、必ずしも言葉と物語はわたしたちを庇護し、慰安するためだけに機能するわけではない。ときにわたしたちをひどく傷めつけ、だまし、たぶらかす。だから対抗できる言葉、緩衝材になる言葉を準備しておく必要がある。心ある小説家は、このことに自覚的であり、つねに言葉との騙し合いに苦闘している。そして、よれよれになりながら様々な答えの出し方を提起している。だから、ビジネスマン諸君、小説なんて意味がない、ことはない。



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3 コメント

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こちらあみ子の非凡さですか・・・ (まさゆき)
2011-06-20 22:54:31
すごいですねぇ。

>やっかいで深い問題をこっそりわたしたちの前に立てた
>物語をつむぐプロセスにおいて、おそらく無意識のうちに問いへの
>回答のヒントも提起した。

こんなに深いんですね。
「面白い本だわ」
といった感想ばっかりでした。
もう一度、読み返してみようかな。

今村夏子さんって、面白い人そうですよね。
http://www.birthday-energy.co.jp/ido_syukusaijitu.htm
で、今村夏子さんの記事があって、詳しく書いてありました。

タイトル変更のワケも、なぜここまで注目されたのかも、
事細かに書いてあって、読み応えアリでした。
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>まさゆきさま (浦山隆行)
2011-06-21 00:29:13
情報ありがとうございます。
解釈は私の勝手なもので、
「まあそうも読めなくはない」と
軽く読み飛ばしてもらえればと思います。
ただ、作家の情報がセロのため、
テキストに沿った解釈のひとつ
ということにはなっているかもしれません。
なっていないか。
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Unknown (くらせい)
2018-03-28 21:12:09
「ピクニック」の話・・・・微妙ですよね。新入りの七瀬さんに対する扱いは酷いけど、ルミ達も七瀬さんをおもちゃとして弄んでいますよね・・・。なまじっか「自分たちは七瀬さんに親切をしている」と思っているから意識的には「いじめをしていない」って思っているんでしょうね。
自分のピクニックに対する解釈、あっていたかどうか気になって他のレビューを見てみたらここに辿り着きました。他のレビューはピクニックの意味を分かっていなかったみたいで「ルミ達は虚言を信じていた」と書かれていたレビューが結構多かったです。
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