考えるための道具箱

Thinking tool box

◎引き続き、津村記久子

2009-02-11 23:57:45 | ◎目次
いやあ『とにかくうちに帰ります』(新潮3月号)もおもしろかった。惹句には「暴風雨の日、長い長い橋をわたって<うち>に帰る。世界に在ること、世界が在ることの隠喩としての物語」とあるが、つまり、これも他者の認識と受容の物語ということになる。主人公のさえない感じのハラは、自分としては<内>のほうがはるかによくって、<内>についてなら、嬉々としてよどみなく、ほんとうに細部にわたるまで、その良さを語ることができる。ああ、こりゃほんとうによくわかってるなあ、という感じだ。

<「給料も今のままでいいし、彼女もできなくていいから、部屋でくつろぎたいんです!」オニキリの、ある種の暴露に対して、ハラの反応は鈍かった。そうか、とすら思わなかった。「部屋でくつろぐためなら、大抵のことはやります。たとえば大雨の中をうちに帰るとか!」
「そうだな」ハラは深くうなずく。「べつに愛は欲しくないから、家に帰りたい」
ほんの一瞬だけ、営業のイシイさんと千夏ちゃんのことが頭をよぎる。彼らは家に帰らない、そのことを不思議に思う。家に帰る以上の価値のあるものがこの世にあるのか。>

<景色からすると、橋はもう半分は過ぎたはずだが、半分過ぎということは、もう半分があるということで、それはこの状況では大して救いにはならないとハラは気付く。
今日のこの瞬間まで、なんでも半分を基準に生きてきた。牛丼は半分までごはんを食べたら、牛肉やたまねぎを丼のごはんがあったろところに落として進捗状況を把握しやすくし、徐々に肉とごはんにおける肉の比率を上げていく。この服屋のシャツワンピースの値段は、あの服屋の半額だからちょっと色が悪くてもこの服屋で。ミルリトンはケーキの半分の値段でミルリトンの方が大きいので、単純な味でも断然ミルリトン。消化しなければならない書類はあらかじめ全ページ数を把握して、半分まできたらお菓子を食べる。勤務時間の半分の時刻は十三時三十分、昼休みを除くと十四時、午後の半分は十五時三十分、そうやって時間を区切って、あと半分だと自分に言い聞かせてやり過ごす。>

<世界>の相対としての<内>の描写はかなり巧みだ。これこれ!これがあるから自分ひとりの思考って楽しいんだよなあと思わず共感してしまう。しかし、そこで終わらないところが、一連の津村の小説であり、いや<世界>のほうも、ちょっとわかりだすと、なかなかおもしろいんじゃない?、と思わせる「流れ」が確実に埋め込まれている。それは、<世界>ウェルカム、いままで知らなかったけど、断然こっちのほうがいいや、といった急激で強烈な転向ではなく、まだ確信はもてないけれどなんとなくいいかも、といったゆるい流れであり、まったく嘘っぽくない。

しかも、<世界>と<内>は、なにがしかの関係をもって、よい感じで、確実に繋がってんだよ、という含みも残す。たとえば、主役級のふたりが退場したあと、それまでいっさい接触のなかったサブキャラクターのオニキリと少年(名前なんだったけ?)のふたりが、偶然に出会いなんとなくわかりあう場面で物語を閉じるなんて、かなり凄い企みだと思う。そしてさらに、やっぱり<内>もいいんだけどねえ、というエクスキューズというか余韻も残り続ける。これこそが、「世界に在ること、世界が在ること」なんだろう。

津村は、こういったやっかいな隠喩を計算尽くで書いているのだろうか。そうだとすればかなりのものだし、もし無意識に書いているとしても、それはかなりのものだ。『ポトスライムの舟』には、まだとりかかれていないけれど、評判をみていると「蟹工船よりこっち」とか「平凡の人生が輝く」といったような声もあったりで、もし、そんな小説なら全然ダメだろうと思うし、これまでの流れからいって、そんな評価は正しくないんじゃないの?とも思う。今日あたりからぼちぼち読み始めてみるか。と思いつつも久々の竹田青嗣の『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』も、近年の彼のまとめとしてずいぶんと気が晴れるので、すぐにはむずかしいかもなあ。

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