そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

5月14日(木)

2009年05月14日 | 昔日記
 卒論演習はもっぱらK君の構想について話を聞く(K君のご実家はお寺で、到来物のお菓子をご持参くだすったが、続く大学院の研究指導に、あっという間に消えてしまった)。当該分野に関して目を通すべき専門書、注意すべき研究者の名前を挙げ、図書館の所蔵データをプリントアウトして渡す。やや時間超過。

 昼食は生協のランチボックスを買ってきて済ます。370円なり。博士の研究指導はEさんの論文指導。皆の意見に沿って最終的な修正を加えれば、全国学会誌の査読をクリアできるんじゃないかな。Hさんは今月中にもう1本論文を仕上げなければならない。がんばって。

 修士演習はMさんのご担当。まず基本的なレトリックを抑えてと釘を刺しておく。正確な読みが第一、と私は思うので。

 院生諸君、夏合宿についてわいわい相談している。我が研究室は、実は関西や中国地方の出身者が多いので、どうやら京都近辺になるらしい。新入生もいないことだし、修論がらみの3名の意向を中心に調整してもらえば構わない。

 学部生中心の研究会=専門特殊研究は、2名の新規参加者があった。お1人はT学部3年の女子学生で、ゼミはU教授とのこと。もう1人は教育学部の1年生だが、物事をよく知っている。「ブルーシャトー」が分かるんだから、おそれ入った。今日の研究会は、Uちゃんが専門領域についての講釈を垂れた。実に面白い話だった。彼は構成力に優れている(文字は下手くそだけど…ちゃんと「衆」が書けるようにしておきなさいよ)。身のこなしや話し方を、もう少し怪しくないよう注意すれば、りっぱな教育研究者になれるかもしれないんだけどねえ…。

 Uちゃん、お腹が空いたというので、連夜の「AMA」へ。途中、畏友教務主任殿と横断歩道上ですれちがったが、ゼミのコンパ帰りのようだった。さて「AMA」は混んでいた。ご繁盛、結構である。昨夜、手拭を忘れてきたように思ったが、案の定だった。ビールを1杯飲んで、結局最後はネパール・ラムになる。アグネス・ラムではない。

5月13日(水)

2009年05月13日 | 昔日記
 10:00から13:00までカリキュラムの委員会。途中、抜け出して学位委員会に出席し、博士論文の受理説明を行う。

 委員会が終わったので、「レ・リーサ」まで走って行き、今出川大学のU教授宛にクッキーを送ってもらうよう手配する。Hさんが学会下発表でお世話になったお礼である。

 15:00前後に、修士論文の研究計画書について面談を行い、署名・捺印した。やれやれ、これでひと安心。中央図書館へ行き、特別資料室で火曜に納品された巻子を見せてもらう。古記録の1日分の記事で、紙背文書も2ヵ所付いている。う~ん、これがあの値段なら安い。1年以上かかったが、よかった、よかった。それから若干調べものをする。月曜の授業の準備である。

 18:30からはU学部2年演習のクラスコンパ。古典系3クラス合同で行い、補助金を当て込み会費2,000円としたが、まさしくぴったしカンカンだった。会計を担当したので、胸を撫で下ろす。帰りがけ、参加してくれた3年生2人とK助手を引き連れて「AMA」に寄る。3年のYさんは酒飲みだ。女の子1人でバーに行ったと、この間語っていたが、なかなかの豪の者でありまする。なんだか眠くなったので、居眠りをしちゃったかも。来週金曜には、T学部の演習コンパを「AMA」に予約している。「かわうち」でやるつもりだったけど、独文のM先生に抑えられてしまっていた。参加者は女子学生が多いから、「AMA」の飲み放題コースが結果的にはいいんじゃないかと思う。

5月12日(火)

2009年05月12日 | 昔日記
 今週と来週、学部の演習でモデル発表をしなければならないので、資料やpptを作る。原稿も書かなければならないけれど、あっぷあっぷになってきた。付属校での授業も近づいてきた。演習のネタを応用しようかな。それならpptもそのまま使えるしな。

 18:00から教組の執行委員会に出席。21:00前に終わったので、やれやれである。春闘の最中だが、別にかりかりするような話題はない。帰りがけ、「太郎月」にて味噌漬け豆腐で「越乃景虎」ほかを飲んで2,000円也。

5月11日(月)

2009年05月11日 | 昔日記
 9:00からの演習は、いよいよ発表資料のまとめ方の段となった。小わけにして当てておいた担当箇所を合成した資料を作り、配布して、それぞれの担当者に説明をしてもらう。それから論読するテクストを指示し、分担を行い、次回は私が見本の発表をすることにした。「してみせて、言って聞かせて させてみる」(上杉鷹山)、もしくは「やってみせて、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」(山本五十六)ということだ。教育ノ淵源亦實ニ此ニ存スですな(違うかな?)。次々回からようやく、学生の発表を始める手筈。とにかく今年は焦らないことにした。スキルが身につけばよいのである。慢慢的、慢慢的。それから受講生を図書館に引率し、展示資料を解説した。まあ、時間潰しにほかならない。

 昼はパートナーとトルコ料理店に行く。ついでに「緑の豆」でコーヒーを買った。14:00にはHさんが研究室に見え、博士論文について打ち合わせをした。ばたばたしているうちに、もう17:00過ぎだ。夕食は「AMA」へ。B学部の演習のコンパは、「AMA」の飲み放題のコースにした。5月22日の予約を入れておく。

 9:00の授業が10:30に終わって、次が19:55開始の授業というのは、本当につらい。かといって、あまりまとまった仕事はできない。修士論文研究計画書の提出が今週なので、相談を受けたり催促したり。Uちゃんはまた、うっかりしていたらしい。ちゃんと身じんまくができるようになってほしいよ。

 7限の概論も、早めに切り上げ、またぞろ受講生を図書館に引率して、展示資料を解説した。ジャンルとテクストの形態、などというそれらしい話をしていたので、実地検証は有益である、なんちゃってね。K助手がちょうど研究室を閉めるところだったので、ちょっと冷たいものを飲みに行く。いやはや、今日は暑かったな。えいひれの天麩羅というのが美味しかった。「すずはん」は月曜、ポイントが2倍だそうだ。お得である。

 帰宅して、國學院の松尾先生が送ってくださったご論稿を読む。「長門切」の資料集成の中に、現在拙蔵となっているものが含まれていた。お礼状にはそのことをしたためる。この切、W君に見せてやったのになあ。あいつ、論文に書けばよかったのに。

 いま、パートナーが占拠している四畳半の床には、定家筆の小記録切を掛けている。これは力が抜けた、実に好もしい軸なのだ(私が表具したのだけれど)。「酒」などという字も書いてある。称して臥遊といふべし。

5月10日(日)

2009年05月10日 | 昔日記
 H先生から慫慂されて茶道の稽古に行く。神谷町などという駅は、実に久しぶりに降りたのであった。18歳で東京に出て来た折に、愛宕下に住む祖父の知人宅へ挨拶に行って以来か。こんな街だったかな。

 さる骨董店のサロンと茶室が会場だったが、いやはや、結構なお席である。小間の床には芭蕉真跡の短冊が掛けてありました。

 このお稽古は、男性中心に行われるというのがミソで、難しいことから教えていただけるといおうか、対話中心に進んでいく。終了後、師匠のN業躰を囲んで西麻布の「権八」へ。思わず知らず遅くなった。帰宅したらパートナーはプリプリしている。連夜のアルコール漬けを深く反省する。

 メールチェックしたら、Hさんの学会下発表はうまくいったらしい。今出川大学のU教授が様子を知らせてくださっていた。規定の発表時間以内に収まっているとのことで、そこが一番気になっていたんだよね。学会発表は時間厳守が第一、特に大学院生は、決してオーバーしてはいけない。内容・レベルについては全く心配していなかったが、その点もUさんからお墨付きをいただいた。あとは自信を持って、落ち着いて、本番を迎えられたし。

5月9日(土)

2009年05月09日 | 昔日記
 学会のホスト(会場校)である。11:00に大学へ行き、案内表示などをささっと手配する。図書館の小展示のケースの中には、和歌三尊像のうち2体を安置した。藤平春男像と橋本不美男像である(もう1体は井上宗雄像なんだけど…)。まあ、私めの師匠方ですな。橋本先生は全集の俊頼髄脳の校注者だから、金葉集の写本の脇に置いた。藤平先生の像はもちろん歌学書のところである。また、パートナーの同僚教授のT先生から、小委員会も開きたいと承っていたので、会議室を開け、コーヒーと紙コップ、それにゆみこさん(「太郎月」の女将)お手製のクッキーもセットしておく。

 ここで腹ごしらえに行く。「すゞ金」の暖簾をくぐった。鰻重を頼むと、先生、肝焼きは?ときた。お願いして、ビールは小瓶にしておく。今日はなんだか暑いねえ。

 展示があるというので例会委員長(藤平先生のご長男)が気をまわし、いつもより30分開始時間が遅くなっている。参会者の出足が悪い。新型インフルエンザの患者が見つかったせいか。会場のすぐ横は、なんと国立感染症研究所なのだ。あな、恐ろし。連休前の通達では、国内で患者が発見されたら構内立ち入り禁止措置になるはずだった。それが連休明けに緩和されたのだが、危ういことであった。

 教育学部のT教授に逃げられたので、会場校の挨拶をする。研究発表は3本。前座はウチのNさんで、丁寧に調べ尽くしている点は評価されたが、やはり論証の弱さが指摘された。Nさんの論のいつもの弱点である。状況証拠に基づいて言い募ると、どうしてもそういうことになりますな。2本目は近世だったが、万葉などにも絡んで、いろいろな人から質問が出た。トリはざあさんで、資料研究の精華!という感じの、実にお見事な発表だった。

 久保田淳先生や後藤祥子先生、それに松野陽一先生も会場にお見えになっていた。松野先生はお元気そうで、ご挨拶を申し上げる。久保木哲夫先生はNさんに質問してくださったし、井上宗雄先生もお見えだった。5月の会としては聴衆はやや少なめだったけれど、珍しい先生方のお姿もお見受けできてよかった。

 資料展示も、宗祇の新出書状は、青学の廣木先生から、よいものだとのお墨付きをいただけた。

 終了後、委員会が19:00近くまであって、懇親会は「かわうち」へ行く。混んでいたが、12名分の席を用意してもらっておいたのが、ぴったりだった。手伝いの院生諸君は合流できないので、また今度ということにする。地下鉄駅近くの焼肉屋に入ったらしいが…。2次会は、福女のI氏、ざあさん、国文研のK氏を誘い「太郎月」へ。A学部の教授が貸し切りになさっていたが、隅っこの席に入らせてもらう。I氏はいま文学部長やっているが、相変わらず大声で下品なことを叫んでいる。大学院の橋本不美男先生の授業の時、私の隣でI氏が口説いていたのが、今の奥さんなのである。もう四半世紀も昔の話だ。横須賀線で実家に帰るI氏を送って東京駅まで行った。

5月8日(金)

2009年05月08日 | 昔日記
 夕方の演習が一つだけだが、Nさんの発表資料作成につきあうため、14:00に大学へ到着。版下を最終的にチェック、コンパクトにまとまったと思う。

 
 明日の学会準備はだいたい整った。連休明けの花札演習は、短冊の書き方だの、柳札の変遷だのの講義をした。韓国の「花闘」の短冊にハングルで書いてある文字は、「赤短」「青短」の意味であることを、留学生に教えてもらった。ひとつ利口になりました。来週は私が発表のモデルを示し、再来週からチームごとのプレゼンテーションを始めることにする。クラスコンパも22日にしようという話になったが、3分の2くらいの人が参加するようだ。

 雨が時々パラパラ降る。帰りがけ「太郎月」で、「伯楽星」をちょっとだけ引っかけた。肴は墨烏賊の刺身。よい歯ごたえである。女将お手製のクッキーを、明日の学会委員会用に少しいただいた。

5月7日(木)

2009年05月07日 | 昔日記
 連休が終わったので悲しくなってしまったとT教授からメールが来たが、まったくもって同感。いつもの生活が戻ってきた。車両故障のため、大まわりで大学へ行く。卒論演習は、目次を作ってきた人、調査対象を絞ってきた人と、皆なかなか順調である。

 昼食を食べそびれた。S君が横で、朗詠古注を熱心に読んでいる。博士課程の研究指導は、Nさんの最終下発表。いいレベルにまとまったが、聴かせどころに来る前にへたってしまう感があるかな。資料ももうひと工夫だ。ぎりぎりまで木賊をかけ、鼻油で磨かれたし。

 修士の演習は欠席者があった。もしやインフルエンザか?

   新型はうつりにけりな世界中
     わが身タミフル処方せし間に 大いに困っちゃう

 明後日の学会例会のための資料展示を、キャンパス図書館内に設営する。雨模様のため心配したが、止み間に本館から展示物を運んできてもらえた。近年収蔵された和歌関係資料から5点、それに「参考」として拙蔵の断簡と短冊をあしらう。ついでに京都で買ってきた古扇も広げて置く。目玉は宗祇の新出の書状で、脇には金葉集の連歌の部のところを広げた。その横に俊頼の歌が書かれた古扇。見る人が見れば分かるだろう。「近江なるつくまの祭…」う~ん、セクハラだと言われなければいいけれど… 和歌三尊像もケースに入れようかと思ったが、いささかおちゃらけ過ぎると断念。土曜日にまた考えるべい。

 18:00過ぎから学生の研究会。今日は最後まで付き合う。K助手が教育学部の前にも立看板を出したので、入会希望者があったそうだ。結構ですなあ。終わって、研究室で飲む。それから、お腹が空いたと皆が言い出すものだから、近くのネパールカレーのお店へ。遅くなり、アルコール漬けで帰ったので、パートナーにひどく叱られた。

5月4日(月)

2009年05月04日 | 昔日記
 東京国立博物館へ「平成二十一年度新指定国宝・重要文化財」の陳列を観に行く。もちろんパートナーと一緒。上野駅は大混雑で、公園口からはいつまでも出してもらえそうもなく、不忍口を出て回ることにした。急がば回れ。

 国宝新指定の土偶はとっても素敵だったけれど、お目当ては大東急記念文庫の顕季集と大阪青山の興風集、それに「餞遊女」題の熊野類懐紙(平家重・藤原重輔、ともに金沢市立中山記念美術館保管)、春日懐紙、慈円書状といったところ。大方の入場者は「阿修羅展」へと向かい、新指定のほうはがらがらで、ゆっくりと存分に拝見できました。

 平家重の懐紙を熟覧し、キャプションを読んでいると、パートナーが、翻字が間違っているんじゃないと言い出した。ほんとだ。

詠餞遊女和哥
      散位平家重
ふねのうちみや
このことやしの
ふらんつゝみの
をとおなみにまか
        へて

 第四句「つゝみのをとお」(鼓の音を)が、キャプションでは「つゝみのをとや」となっている。おかしいなあ。結構有名な和歌懐紙なんだけどなあ。たしかに「お」(字母はもちろん「於」)は、「夜」のくずしに似ていなくはない。しかし文字は絶対「於」だ。意味的にも係助詞が変に入ってくるよりは、助詞の「を」(表記は「お」だが)のほうが素直に続く。助詞の「を」をア行の「お」で表記するのに、キャプションを書いた人は抵抗があったのかなあ。でも、平安末にはア行の「お」もワ行の「を」も、同じ発音(vo)になってしまっていたというのは、国語音韻史の常識中の常識である。助詞の「を」を「於」で表記した事例もたくさんあったはず。

 そばに立っていた監視?のお姉さんに、キャプションの翻字が一箇所誤っていると思うのでご参考までと申し上げたら、これは恐れ多くも畏くも文化庁さまがお作りあそばしたキャプションですぞ!と、歯牙にもかけてもらえなんだ。まあ、係の方にお伝えくだすってご検討くださいましな、私もしがない私立大学のへっぽこ教授だけど、一応この分野では、憚りながら専門家中の専門家なんですわ、と穏やかにお願いをしておく。いやはや、余計なことをいたしました。お国の権威、文化庁さまには敵いませんわいな。

 「池の端藪」でビールを飲んでざるをたぐり、「わしたショップ」で買い物をして帰宅。すぐに平家重懐紙の資料を調べてみたら、ありゃりゃ、『墨美』第169号、それに田村さんの『後鳥羽院とその周辺』まで「をとや」としているがな。『古筆大辞典』は正しく「をとお」となっていた。資料は虚心に現物を読まなければいけないという教訓でした。

5月2日(土)

2009年05月02日 | 昔日記
 9:30にHさんと待ち合わせ。パートナーにも同席してもらい、月末の学会大会発表のリハーサルをする。まだ読み原稿が完全には仕上がっていない。Hさんは現在、ゆゑあって関西住まいをなさっており、こちらで結構忙しい仕事にも就いている。通常の研究指導の時間にリハーサルはできないから、指導教授御自ら出向いたという次第。発表資料は既に大会事務局へ提出した後のまつりだが、「医心方」を「医心房」と誤記した箇所があった。気づいたのはパートナーで、さすがは国語音韻学者である! でもまあ、これくらいならご愛嬌のうちだろう。

 読み原稿が完成したら、誰かに聴いてもらうとよいのだが、そのあたりの手配はまた考えることにした。R大出身のYさんあたりに誰か紹介してもらうかな。あるいは、阪大の学会の懇親会の折にお話しした京女の院生Oさんあたりに…とも思うが、名刺をもらわなかったので連絡のしようがないなあ。どなたか日曜に、1時間ないし1時間半ほど、京都駅の喫茶店あたりで、Hさんにおつきあいいただける前近代専攻の方はいらっしゃらないだろうか?

 チェックアウトして、早くに東京へ帰るパートナーと別れる。早稲田で義太夫正本の研究会なのだそうだ。阿闍梨餅を並んで買って、研究会へのお土産にするとか。私は、娘と一緒に烏丸三条西入の「Iemon salon」へ行き、早い昼食を摂る。おお、「仙涯」が掛けてあるがな。折れのひどい幅だが、鍾馗様を描き「降伏大魔」とある。脇には小鬼が居て、なかなかユーモラスだ。季節にぴったりだな。感心して娘に解説していたら、向いの席の女性二人連れは目を丸くしていた。

 近代美術館へ行きたいという娘を地下鉄で東山まで連れて行き、あとはご随意に。私は「亀仙工房」で手拭を物色。なにしろ土日と祝日しか営業していない店だからな。手拭のシャツが欲しいけど、サイズがない。XLか3Lを作って欲しいとお姉さんに申し上げたら、検討しておきますと言われた。

 それからT堂へ行く。メールしたはずだが、最近スパムメールが多く、読まれずに削除されたようだ。古筆切をざっと見せてもらう。表具がよいので、結構高い。もとより朗詠には食指は動かない。鎌倉の後撰の切は、いいなあとは思うが、勅撰集は勘物や傍記でも付いていないと、最近はどうもピンとこなくなった。それならいっそ、浄瑠璃寺摺仏でも買うかな。

 娘から電話が掛かってきた。落ち合って四条通りあたりを少しぶらつき、「ぎぼし」で「吹きよせ」や「ほいろ昆布」を買う。この「ほいろ昆布」が美味しいだよね。

 駅まで戻り、お茶でも飲もうと思ったが、すごい人出である。予定より1時間ほど早く帰っちゃおうと相談がまとまる。新幹線はガラガラだった。昨夜の残りの「御代栄」を空ペットボトルに入れてちびちびやっていたら、酔っ払った。

 自宅へたどり着くと、為和の短冊と景樹の懐紙がもう届いていた。買ってきた「永楽屋細辻伊兵衛商店」の町屋手拭、賀茂競馬には景樹の和歌が入っている。ゆかし、ゆかし。結局京都へは、ひたすら買い物に行ったようなものだったな。

5月1日(金)

2009年05月01日 | 昔日記
 京都へ来た。昼食に筍を食べて、京大に行くパートナーと別れ、ひとりで寺町通りをうろつく。今日はメーデーである。市役所のあたりで行進に出くわす。肉屋でG荘のご主人に遇う。後で寄らせていただきます。

 S家に入ったら、RK大学のOさんが座り込んでおいでだった。のっけからヤな御仁に遇ったものだ。Oさんは京都に別邸?をお持ちである。連休はずっとこちらだとか。給料が下がってたまらん、というお話を承る。お店は目録の準備中とかで、モノは見せていただけない。伊勢物語の注釈切を1枚だけもらう。

 次にB堂へ行く。ご主人に、今月半ばに行われる故雲英末雄先生を偲ぶ会で配られる年譜・業績一覧を差し上げた。谷脇先生から1部、先立って頂戴していたものである。雲英先生はB堂の常連で、俳諧短冊をたくさんお買い上げになっていた。

 ショーケースの中に室町の短冊の逸品が何枚か並んでいる。甘露寺親長・元長父子、三条西実隆・公条父子が揃っている。いいなあ。B堂としては高い値付けだけれど、他の店に比べたら半額以下だ。食指は大いに動いたが、結局、上冷泉為和の短冊を1枚と、タダみたいな値段の香川景樹の和歌一首懐紙を1枚購入。かさばるので、自宅へ送っていただくようお願いした。

 それからようやくG荘に寄る。来週、ご次男が図書館へ納品に見えるそうだ。新宿から大学図書館への行き方をしつこく尋ねられた。私が申請者になって、1年がかりで収蔵が決まった資料のこと。その功徳か、お土産をいただいたが、買うべき品はなく、店を後にした。

 二条通りを西に進む。東洞院との角を写真に撮り、押小路まで下って今度は高倉通りを北行。途中でまた写真を撮る。この区画が後鳥羽院の御所であった「二条殿」の址になる。熊野御幸関係の実地踏査の一環で、今回京都に来た目的の一つをこれで果たした。

 「宮脇賣扇庵」を覗いて源俊頼の歌の書いてある古扇を衝動買いし、富小路をそのまま下って、錦小路でいつもの山椒を買い、「たち吉」の四条本店に入る。「へうげもの展」をやっている。「裏具」とのコラボによる酒器があることをHPで確認していた。その酒器と、揃いの盃2個をめでたく購入。ついでに変なブローチも買ってしまった。京都に来ると、どんどん金が無くなるわい。

 宿は駅のすぐ近くにとった。もう面倒なので、夕食は駅ビル内で済ます。伊勢丹の地下で近江の地酒を買い、さっそく「裏具」の酒器を使ってみた。こりゃ~、いいぞなもし。肴は鱧にした。それから、Eさんの論文の添削をする。相変わらず何だか尻切れトンボだな、ぶつぶつ。