政府の緊急事態宣言発令以降、終日パソコンに向かって在宅勤務が続き、週末も外出もできず、悶々と日々を過ごしている。本書は日々の退屈凌ぎのためネットで注文して手に入れた。
著者松浦玲氏は「勝海舟」や「徳川慶喜」(いずれも中公新書)といった著書のある幕末史の重鎮の一人。昭和六年(1931)十月生まれというから、私の父親と全くの同い年で、米寿を迎えてなお旺盛な執筆意欲には感嘆のほかはない。
幕末史は、二百五十年以上の長きにわたって我が国を支配してきた徳川幕府という権力を倒す物語である。自ずと幕府を倒した側(つまり薩長)中心に描かれることが多いが、本書は倒された徳川政府から見た幕末史である。
それぞれの時期に政権内で誰が権力を有していたのか。幕末の政局はめまぐるしく変化するが、それに応じて権力者も登場退場を繰り返す。ペリー来航時は若き宰相阿部正弘が権力の座にあった。阿部亡きあとは堀田正睦。堀田が失脚すると、井伊直弼が大老に就任する。安政の大獄、桜田門外の事変を経て、久世広周、安藤信正が引き継ぎ公武合体、和宮降嫁を推進した。しかし、文久二年(1862)の坂下門外の変以降、安藤・久世は相次いで退場に追いやられる。そのあとを継いだのが老中水野忠精(天保の改革で有名な忠邦の実子)と板倉勝静(備中松山藩主・伊賀守・周防守)である。水野政権とも呼ばれるという。
安藤・久世と入れ替わるように、松平春嶽が政事総裁職に、一橋慶喜が将軍後見職に就く。しかし、次第に両者の反目が顕在化して、春嶽・慶喜体制は破綻を迎える。本書によれば、春嶽は安政年間一橋派の最大の有力者であったが、ついには「慶喜嫌い」になったという。
本書には多くの幕府側の人材が登場するが、キーマンの一人が春嶽である。地元福井では名君という取り扱われ方であるが、本書では、怒ったり拗ねたり、実に人間臭く描かれている。
安政五年(1858)正月、島津斉彬が左大臣近衛忠煕や三条実万に向けて一橋慶喜支持への援助を賜りたいという書簡の写しを見た春嶽は動転した。近衛宛の文書には自分と老中の名前が出ている。三条宛の書簡には、慶喜を継嗣にせよという内勅を出してほしいとまで書いてある。焦った春嶽は、老中松平忠固、数日後には同じ老中の久世広周のところに行って、斉彬の書面を提出して、自分が関与していないことを釈明した。彼らは紀州派である。彼らに手のうちをさらけ出すというのはあまりに拙策であるが、彼としては同志を売ってでも身の潔白を訴えたかったのである。
筆者は「島津斉彬書簡を見て狼狽えた正月末から短期間で春嶽は随分成長」したと評する。紀州派が九条関白を陥したという情報を察知すると慶喜に有利な勅諚を引き出す運動に方針を切り替えた。
尾張家、水戸家の不時登城の後、春嶽も井伊大老に面会し、違勅調印を責めると同時に継嗣問題を論じた。筆者は違勅状態を「継嗣問題に活用しようという姿勢は慶永(春嶽)が特に強く、それを論じる力もあった」と評価する。
後年、幕府が朝廷から攘夷を迫られた時(文久二年(1862)十月)にも政権返上を主張したが、春嶽の論理は簡明であり、説得力があった。流石の慶喜も正面から反論することを避けた。春嶽はもともと頭脳の明晰な人だったのであろう。因みに文久二年(1862)の政権返上論は、のちの大政奉還の原型を成すものである。春嶽は慶應二年(1865)にも政権返上を慶喜に建言しているが、採用されることはなかった。
長州再征問題でも幕府内の意見は分かれていた。征長反対派は、春嶽、大久保一翁ら。これに対して積極派は老中小笠原長行を筆頭に在阪首脳。広島で長州の使者宍戸備後助の詰問を担当していた大目付永井尚志も推進派である。一方、水野忠徳(癡雲)は「玉之入替説」を唱えて第三極を形成した。玉の入替、つまり将軍家茂を辞職させ、慶喜を幕府トップに担ぎ出そうという案である。筆者は水野を高くかっていて、「資料が揃えば伝記を書いてみたい人物の一人」とまで惚れ込んでいる。春嶽と水野の離反は「徳川幕末の損失」とも評している。
ここで幕府内において征長の是非が議論されるような場面があれば、幕府の命運はもう少し長らえたのかもしれない。残念ながらそのような痕跡はなく、結果からみれば幕府の命運を縮めることになる第二次長州征伐が実行されることになった。家茂は小笠原長行を広島に派遣し、長行は長州藩の巧妙な開戦引き延ばし策にかかってしまい、幕府は散々待たされた挙句開戦に引きずり込まれた。その時点では長州はすっかり応戦体制を整えていたのである。
さて、政事総裁職という臨時的栄誉職は、春嶽のために作られたもので、一代限りのものかと思っていたが、その後、親藩の松平直克がこの職に就いていたということを本書で初めて知った。
直克は川越藩主(のちに前橋藩主)で、大和守を称した。幕閣には珍しい本心からの攘夷論者であった。直克が政事総裁職に就いたのは文久三年(1863)十月。翌元治元年(1864)六月までその職にあったが、横浜鎖港問題や天狗党鎮圧をめぐってほかの老中と対立して辞職した。何故、このタイミングで幕府が直克を登用したのか、誰の意向が働いたのかよく分からないが、八一八政変以降も天皇の攘夷思考が強いことを受けての人選かもしれない。「春嶽や(伊達)宗城らにとって鬱陶しい存在」だったという。
筆者松浦玲氏は勝海舟の研究者としても知られるが、決して海舟を神格化するのではなく、批判すべきところは容赦なく批判する。海舟の日記や記憶をもとにした談話は、自分に都合の悪いところは(意図的に?)書き飛ばしたり、忘れてしまっている傾向がある。
文久元年(1861)三月、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬を侵攻するという衝撃的事件が発生した。海舟は「氷川清話」において「いはゆる彼をもって彼を制するといふものだ」といかにも自らの人脈を用いて英国大使を動かし、ロシア軍艦を追い払ったかのように自慢している。しかし、ポサドニック事件において海舟が動いたという記録は「氷川清話」以外になく、疑問視されている。「勝海舟と幕末外交」(中公新書)の著者上垣外憲一氏は外国奉行に復帰した水野忠徳が海舟を長崎に派遣したと推論しているが、松浦玲氏は「真似ができない強烈な推論」であり「承服できない」としている。少なくとも海舟一人が動いて事件が解決したなどということはないだろう。
第二次長州征伐が進んでいる中、京都で会津と薩摩の調停を命じられた海舟は、後年「調停に成功した」と語っているが、筆者にいわせれば「大嘘」であり、海舟の説得は「かすりもしなかった」とする。
本書は部分を切り取っても非常に面白い読み物になっている。一つ紹介おきたいのは、筆者の改元に関する蘊蓄である。詳細は本書P.164以降「最後の甲子改元で「元治」」、P.191以降「慶應改元」を読んでもらえればと思うが、甲子改元時には「令徳」という元号が七つの候補の中の一つに挙がったという。特に天皇は「令徳」がお気に入りだったらしい。しかし、これは「徳川に命令する」と読み取れることから春嶽の運動によって闇に葬られ(ここでも春嶽の論破力がものをいった)、「元治」に決定したという。昨年の改元の際、元号に「令」の文字が採用されたのは「史上初めて」と報じられたことは記憶に新しいが、過去に採用されかかったことはあったのである。
なお、P.267に鳥羽伏見の敗戦後、東帰を命じられた開陽の副長を「伴太郎左衛門」と記しているが、これは「沢太郎左衛門」の誤りである。歴史書籍の校正は、それなりの知識がないと難しい。筑摩書房ほどの大出版社でもそういう人材は不足しているという証左かもしれない。
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