史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高梁 Ⅲ

2018年11月23日 | 岡山県
(頼久寺)


頼久寺

 頼久寺は、足利尊氏が南北朝騒乱期に諸国に命じて作らせた安国寺の一つで、戦国期に松山城主上野頼久が荒廃していた当寺の復興に尽くしたことから、彼の死後寺号に頼久の二字が付け加えられ、安国頼久禅寺と称されることになった。小堀遠州の作とされる庭園が有名であるが、私の目当ては墓地入口近くにある乙部剛之進の墓である。まっしぐらに墓地を目指した。


乙部剛之進(武部銀次郎)吉明墓

 乙部剛之進は、備中松山藩士。別名を武部銀次郎といった。明治元年(1868)九月中旬、仙台で新選組に入隊。明治二年(1869)五月十一日、弁天台場にて戦死した。

(道源寺)
 道源寺には、原田亀太郎と熊田恰という、二人の備中松山藩士の墓がある。


道源寺


原田龜太郎墳

 門前に原田亀太郎の墓と顕彰碑がある。


原田亀太郎顕彰碑

 原田亀太郎は別名原田一作。森田節斎の門下で学んだ。文久三年(1863)の天誅組の挙兵に伍長として参加。捕えられて元治元年(1864)七月二十日、禁門の変の戦火が迫る中、六角獄舎で刑死した。二十七歳。


熊田恰矩芳墓

 熊田恰は、文政八年(1825)の生まれ。備中松山藩家老。慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いの時、藩兵百五十を率いて大阪の警備に当たった。藩主板倉勝静は老中として将軍徳川慶喜とともに大阪城中にあったが、慶喜は大阪城を脱出して江戸に逃げ帰った。この時、勝静も同行することになったため、熊田には藩兵を率いて国元に帰るように命じた。松山藩には朝敵のレッテルが貼られ、留守家老大石隼雄は主君の動静に関係なく勤王を誓い、岡山藩の追討軍千五百が松山城を囲んでいた。熊田恰は玉島港に上陸したものの、帰るに帰れない藩兵百五十名のために切腹し、街を戦火から救っただけでなく、藩兵の命を救った。年四十四。

(山田方谷寓居跡)
 この碑は頼久寺の車庫の南側、駐車場のそばの民家の前にある。藩政の激務に追われる方谷は、この地にあった屋敷で詩などを作って、疲れを癒したといわれる。


山田方谷先生寓居跡

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