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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

二条城 Ⅲ

2018年11月09日 | 京都府
(二条城)


花脊の松上げ

 今年の夏休みは、一日の休みをもらって、花脊の松上げを見に行くことにした。花脊というのは、鞍馬よりずっと山奥の寒村で、出町柳からバスで一時間二十分もいった場所である。峠を越える山道は、本来バスが通行できるような道ではなく、乗用車同士でもすれ違いができないような細い道で、カーブの連続である。現地に到着したときには、乗客から運転手に向けて感謝と称賛の拍手がわきあがった。
 松上げというのは、この近辺から若狭地方に至る山間部に見られる風習で、お盆の火送り行事の一種である。
 午後九時前になると、松明を手にした法被姿の男たちが現れ、やがて千本といわれる地松に点火される。ついで高さ上松の頂上に向けて、次々と松明が放り上げられる。見事、大籠に着火すると観客から歓声と拍手が起こる。やっていることは運動会の玉入れと似ているが、暗闇に火が放物線を描く様子は幻想的でもある。大籠が燃え上がると、最後は上松が引き倒される。どんという地響きとともに祭りは終焉を告げる。
 京都の実家に戻ったのは、午後十一時を過ぎていた。翌日は嫁さんと二条城を見学した。久しぶりの二条城は、外国人だらけであった。


京都所司代で使われていた釣鐘


二の丸庭園
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岡崎 Ⅺ

2018年11月09日 | 京都府
(満願寺)


満願寺


贈従五位山崎久三郎兼光先生墓

 満願寺は東山動物園の北に位置している。子供の頃、よく東山動物園には連れて行ってもらった記憶がある。今でこそ、京都にも水族館や鉄道博物館といった子供向けの施設ができたが、昔は動物園くらいしかなかったのである。
 動物園界隈の賑わいと比べると、満願寺まで来るとずっと静かである。満願寺は、もとは西ノ京にあった日蓮宗の寺院である。現在地に移転したのは元禄十五年(1702)のことである。本堂は移転後まもなく造営されたもので、裳階(もこし)と呼ばれる本来の屋根の下にもう一層の屋根を備えた独自の建築物となっている。

 墓地に進むと、山崎久三郎(きゅうさぶろう)の墓がある。山崎久三郎は、文政三年(1820)、伏見の呉服商の家に生まれた。尊王の志厚く、家業を捨てて志士たちと交わり、文久三年(1863)八月の大和五條の変には私財を投じて武器兵糧を調達した。その後、幕吏の追求を受けて各地に潜伏。元治元年(1864)七月、禁門の変には長州軍に投じ、敗戦後、長州に赴いて奇兵隊に入った。慶應三年(1867)十一月、奇兵隊に従って東上、鳥羽伏見の戦いにも参加した。ついで上野寛永寺に籠った彰義隊の討伐に当たって重傷を負い、ようやく京都に帰った。明治九年(1876)伏見白砂山に閑棲中、病死した。年五十七。

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円山公園 Ⅳ

2018年11月09日 | 京都府
(大雲院)


大雲院

 大雲院の開山は天文八年(1539)のことである。天正十五年(1578)、正親町天皇の勅命により、織田信長、信忠父子の菩提を弔うために御池御所(烏丸二条南)に開創され、織田父子の碑を建て追善供養した。その後、豊臣秀吉は、寺域の狭隘なるを見て天正十八年(1590)、寺町四条に移し、「大雲院」の三文字を親書した。その勅額は今も本堂に掲げられている。以来、その地に伽藍を擁していたが、周辺が繁華となったため、真葛ヶ原と呼ばれる現在地に再移転している。
 かねてより大雲院の祇園閣碑を見たいと思っていたが、たまたまこの近くを通りかかった時、大雲院と祇園閣を特別公開であることを知った。実は祇園閣碑だけ見ることができれば、それで満足だったのだが、入口の男性に「それはできません」ときっぱりといわれてしまったので、六百円を支払うことになった。結果的には十分値打ちのあるものであった。


佐土原藩戦没招魂塚


豊烈曜後之碑

 まず、境内に進むと、佐土原藩戦没招魂塚がある。この佐土原藩戦没者招魂塚および豊烈曜後之碑(顕彰碑)は、中京区寺町通りの一角にあったが、碑石の風化荒廃甚だしく、朽ち果てる寸前であった、佐土原町では、郷土先人の偉業を後世に伝えるため、昭和五十八年(1983)、大雲院の協力を得てこの地に碑石を復元移転した。いずれも慶應四年(1868)の戊辰戦争における佐土原藩出身者の戦死者を慰霊するためのものである。


祇園閣

 祇園閣は、大倉喜八郎の建てた鉄筋コンクリート造り三階建ての建物で、内部の壁面には観無量寿経変想図、釈迦説法図、千手観音図等が描かれ、京都市街地にありながら独特な空気を発する空間になっている。


祇園閣碑

 大雲院の場所は、大倉喜八郎の建てた別荘真葛荘(昭和三年(1928)竣工)の跡地にあたる。大倉喜八郎は、京都の新名所をすべく祇園祭りの鉾を模した高さ三十六メートルの祇園閣を建てた。喜八郎は祇園閣の完成を見ることなく他界したが、息喜七郎が翌年、祇園閣の前に碑を建立した。揮毫は西園寺公望八十歳の書である。

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三条大橋 Ⅳ

2018年11月09日 | 京都府
(三条京阪)


三縁寺跡

 三条京阪のバスロータリーの東側に三縁寺跡を示す石碑がある。実は、この石碑を探して付近を探すこと三度目。ようやく出会うことができた。
 現在、岩倉花園町に再建されている三縁寺は、かつてこの地にあった。元治元年(1864)六月五日の池田屋事件によって新選組に襲われ斃れた志士は、三縁寺に葬られた。この石碑には、ご丁寧にも、三縁寺への行き方まで記載されている。平成二十二年(2010)建立。

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大徳寺 Ⅱ

2018年11月09日 | 京都府
(三玄院)


三玄院

 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば大徳寺塔頭三玄院に久我建通(こがたけみち)の墓があるというので、三玄院を訪ねてみたが、三門に「拝観謝絶」と大書されており、とても墓地に進入できる雰囲気ではなかった。
 久我建通は文化十二年(1815)の生まれ。文政五年(1822)叙爵、累進して文政九年(1826)従三位に叙せられ、天保五年(1834)正二位に進み、嘉永元年(1848)、権大納言となり、安政五年(1858)には右大将を兼任、ついで文久二年(1862)正月、内大臣に昇った。これより先、安政元年(1854)議奏となり、文久元年(1861)まで在職したが、その間、孝明天皇の寵遇を得て枢機に参画し、権力を有していたため「権関白」と称された。安政五年(1858)、幕府の日米通商条約勅許を奏請した際、勅答の処理、幕使の応接に当り、また関白九条尚忠の排斥、水戸賜勅一件に関与し、さらに皇妹和宮の降嫁問題が起こると、岩倉具視らとともに朝幕間の調整に努め、和宮不承諾の場合の代案として皇女寿万宮の降嫁を画策するなど、婚儀の成立を図って尽力した。しかし、世上にはこの行動をもって、賄賂を得て幕府のために尽力したものであるとの流説が行われ、このため文久二年(1862)、攘夷派激徒より四奸の一人として脅迫を受け、さらに八月には一部廷臣より、外交問題に関しても内々九条関白に同心したことをもって、幕府への阿諛として弾劾されたため、辞官・蟄居・落飾を命じられ、九月には洛中の居住を禁じられ、素堂と号して平野村に閉居謹慎した。慶應三年(1867)三月、入京を許され、明治元年(1868)十二月、蟄居を解かれて、還俗を命じられた。明治二年(1869)、麝香間伺候となり、のち皇子建宮御付、維新前諸儀式取調御用、宸翰御用掛等を命じられ、また賀茂・松尾・貴船各社の宮司および大教正に任じられた。明治二十年(1887)十二月、従一位に任じられた。明治三十六年(1903)、年八十九で没。

(玉林院)


玉林院

 昔、いとこが大徳寺幼稚園で保母さんとして勤務していたが、その幼稚園は玉林院に隣接している。
 「但馬の殿様」(神戸新聞総合出版センター)の著者吉盛智輝氏より「小出秀実の墓は大徳寺玉林院にある」との情報をいただいたので、玉林院を訪ねた。しかし、玉林院は、ほかの大徳寺塔頭と同様に拝観謝絶。わずかな希望をいだいて、今宮神社参道側から墓地への進入を試みたが、墓地の扉にも鍵がかかっていて、残念ながら小出秀実の墓に出会うことは叶わなかった。
 小出秀実は、天保五年(1834)の生まれ。文久元年(1861)、小姓組より使番となり、さらに目付に任じられ、外国掛を担当した。文久二年(1862)には箱館に赴き、つぶさに現地を視察し、また樺太におけるロシアの進出に関する情報を得、領土問題への関心を高めた。同年、箱館奉行に任じられると、しばしば建議して境界画定の急務であることを論じた。これより先、竹内保徳を正使とする遣欧使節が樺太国境画定問題を交渉したが、条約締結に至らず帰国している。かくて慶應二年(1866)、石川利政とともに境界画定交渉の全権に任じられ、その直後に外国奉行兼帯となった。ペテルブルグに着くや、アジア局長ストレモウホフとの間に交渉を進め、竹内使節に示した北緯四十八度線案も拒否し、ついに国境画定に至らず、日露両属雑居の樺太島仮規則五箇条に調印し、慶應三年(1867)五月、帰国した。帰国後は勘定奉行、さらに町奉行に転じ、幕府瓦解期の混乱した江戸の治安に当たった。明治二年(1869)、没。

(黄梅院)


黄梅院

 大徳寺塔頭黄梅院に谷鉄臣の墓を訪ねた。ちょうどお盆の時期で墓地に入ることはできたものの、谷鉄臣の墓に出会うことはできなかった。大徳寺とは相性が良くないようである。

 谷鉄臣は文政五年(1822)の生まれ。江戸に出て林家に経学を、長州で蘭方医学を学び、彦根にて医を業とした。文久三年(1863)、彦根藩士に登用され、家老岡本半介に属して上京。長州藩士との折衝や京師周旋の任に当り、彦根藩を勤王に導いた。明治元年(1868)には藩の参政に抜擢され、明治三年(1870)、権少参事となって、明治政府に仕え、明治四年(1871)には大蔵大丞に任じられ、のち左院一等議官、宮内省京都支庁御用掛となった。明治三十八年(1905)、年八十四で没。

コメント (3)
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