これまでも似たような「お題」の本を何冊か読んでいたので、あまり期待せずに手にとったが、期待以上の内容であった。何が期待以上かというと、まずもってよく調べていることである。
天璋院や和宮の項は、ありきたりの物語で新鮮味はなかったが、その後続々と登場するお姫様の物語はいずれも興味深いものばかりであった。
たとえば、松前崇広の正室維子(ふさこ=中村藩主相馬益胤四女)と松前徳広の正室光子(岩村田藩主内藤正縄二女)の物語。私も落城後の松前家の悲劇を追って、北海道の館城や熊石、青森県の平館などを巡ってきたが、その裏に二人の未亡人がいたことは本書で初めて知った。維子も光子もそれぞれ慶応三年(1867)二月と明治二年(1869)二月に亡くなったと公表されている。しかし、筆者の執念深い調査の結果、維子は染井霊園に葬られており、その墓石に、没年月日は明治三十一年(1898)十一月二十八日と刻まれているという。光子の墓も松前家の菩提寺松前の法幢寺にもないことから、維子と同じように、世をはばかりながら明治を生きていた可能性がある。
もう一つ感心したのは、筆者の文章力である。一分一文が簡潔明瞭である。短い文を煉瓦のように積み上げながら、お姫様の人生を描く。筆者は極力感情を排除しているが、一章に一つ筆者のコメントを加えて文を閉じる。たとえば、鍋島直大夫人胤子の章は、次の一文である。
――― あまりに早い死が、胤子の存在を記録の彼方に埋もれさせてしまった。もっと長生きすれば、蕾のまま持ち帰った西洋文明の花を開かせることもできただろうと、惜しまれる。
天璋院や和宮の項は、ありきたりの物語で新鮮味はなかったが、その後続々と登場するお姫様の物語はいずれも興味深いものばかりであった。
たとえば、松前崇広の正室維子(ふさこ=中村藩主相馬益胤四女)と松前徳広の正室光子(岩村田藩主内藤正縄二女)の物語。私も落城後の松前家の悲劇を追って、北海道の館城や熊石、青森県の平館などを巡ってきたが、その裏に二人の未亡人がいたことは本書で初めて知った。維子も光子もそれぞれ慶応三年(1867)二月と明治二年(1869)二月に亡くなったと公表されている。しかし、筆者の執念深い調査の結果、維子は染井霊園に葬られており、その墓石に、没年月日は明治三十一年(1898)十一月二十八日と刻まれているという。光子の墓も松前家の菩提寺松前の法幢寺にもないことから、維子と同じように、世をはばかりながら明治を生きていた可能性がある。
もう一つ感心したのは、筆者の文章力である。一分一文が簡潔明瞭である。短い文を煉瓦のように積み上げながら、お姫様の人生を描く。筆者は極力感情を排除しているが、一章に一つ筆者のコメントを加えて文を閉じる。たとえば、鍋島直大夫人胤子の章は、次の一文である。
――― あまりに早い死が、胤子の存在を記録の彼方に埋もれさせてしまった。もっと長生きすれば、蕾のまま持ち帰った西洋文明の花を開かせることもできただろうと、惜しまれる。
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