(片山邸)
片山邸
片山重範宛ての友人書簡
片山邸は「百畳屋敷」と呼ばれる広大な敷地を持つ旧家であるが、道路の拡張工事などにより現在は母屋のみを残している。この母屋は明治十四年(1881)の建築である。
広い土間を利用して、「茶房かたやま邸」が営業されている。三年振りの同窓会はここでの昼食を最後に解散となった。
片山邸の二階はこの家に伝わる数々のお宝が展示されている。森田節斎の同門、元老院議官などを務めた柴原和や島田泰夫(大分県出身、内務省衛生局次長)らの書簡が掛け軸に貼られている。
幕末の当主は片山重範といって、天保九年(1838)の生まれ。長じて倉敷で森田節斎に学び、明治に入って生まれ故郷である下加茂村にて私塾を開いた。明治三年(1870)三十二歳で岡山藩士となり、上京して民部省に出仕した。明治十年(1877)には地租改正で実績を上げ、大久保利通から四百円を賞賜されたという。明治十二年(1879)、兼任内務権少書記官正七位に叙され、翌年には栃木県大書記官に就いた。明治二十三年(1890)、官を辞して東京に戻り、「藩山年譜」「片山家家愚譜」などの発行に尽くした。明治二十八年(1895)、帰郷したが、ほどなく没した。五十七歳。
片山邸
片山重範宛ての友人書簡
片山邸は「百畳屋敷」と呼ばれる広大な敷地を持つ旧家であるが、道路の拡張工事などにより現在は母屋のみを残している。この母屋は明治十四年(1881)の建築である。
広い土間を利用して、「茶房かたやま邸」が営業されている。三年振りの同窓会はここでの昼食を最後に解散となった。
片山邸の二階はこの家に伝わる数々のお宝が展示されている。森田節斎の同門、元老院議官などを務めた柴原和や島田泰夫(大分県出身、内務省衛生局次長)らの書簡が掛け軸に貼られている。
幕末の当主は片山重範といって、天保九年(1838)の生まれ。長じて倉敷で森田節斎に学び、明治に入って生まれ故郷である下加茂村にて私塾を開いた。明治三年(1870)三十二歳で岡山藩士となり、上京して民部省に出仕した。明治十年(1877)には地租改正で実績を上げ、大久保利通から四百円を賞賜されたという。明治十二年(1879)、兼任内務権少書記官正七位に叙され、翌年には栃木県大書記官に就いた。明治二十三年(1890)、官を辞して東京に戻り、「藩山年譜」「片山家家愚譜」などの発行に尽くした。明治二十八年(1895)、帰郷したが、ほどなく没した。五十七歳。
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