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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

西吉野 Ⅲ

2018年06月16日 | 奈良県
(欣求寺)
 橋本若狭とともに下市から天誅組に参加した欣求寺(ごんぐうじ)了厳は、汗入村(五條市西吉野十日市)の性竜寺に生まれた。欣求寺に住んでいたため欣求寺了厳と呼ばれた。天誅組破陣後、京都の西本願寺(欣求寺の本山)を頼って駆け込んだが、太鼓楼に幽閉された。了厳は食を絶って、翌年四月三日、死を迎えた。


欣求寺

 了厳の慰霊碑があるというので山深い十日市欣求寺を訪問したが、発見できず。欣求寺は現在地に移転したが、了厳法師之碑は旧地にそのまま置かれているらしい。

(波宝神社)
 吉野三山の一つ、銀嶺山(別名白銀岳 標高614メートル)は、古くから神南備山(かむなびやま)として信仰されてきた。この山頂に鎮座する波宝(はほう)神社の最古の記録は「日本文徳天皇実録」の天安二年(858)三月に官社となった記事まで遡る。祭神は住吉大神と神功皇后。幕末には有栖川宮の祈願所ともされ、文久三年(1863)九月七日、天誅組は下市方面からの攻撃に備えるため、この地に本陣を置いたが、防塁はわずか一日で陥落し、当地の本陣は三日のみであった。


波宝神社

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五條 Ⅳ

2018年06月16日 | 奈良県
(小林金芝宅址)


小林金芝宅址

 本陣交差点の近く、散髪屋の隣に目立たない石碑がある。小林金芝とは、森田節斎とも交流のあった医師小林道隆のことである。

(桜井誠文堂)
 桜井誠文堂(文房具屋もしくは書店か)は、五條を訪れた吉田松陰が宿泊し、ここを拠点に森田節斎を訪ねたとされる堤孝亭の旧宅跡である。堤孝亭は節斎とも交流の深かった医者である。現在、跡地は立派なビルとなっており、往時を偲ぶものは何もない。


桜井誠文堂

 松陰が森田節斎を訪れたのは嘉永六年(1853)二月十二日、大阪を発ち、竹内街道を越えて翌十三日、五條に着いた。ところが、節斎は所用で河内方面にでかけるところであり、松陰もそれに同行して富田林、岸和田、熊取、岡田、堺などを転々とし、再び五條に戻ったのは四月六日のことであった。

(講御堂寺)
 

講御堂寺

 五條代官所が天誅組の手によって占領されると、代官所が焼き払うことが通告された。合わせて、代官所の書類は村役人の手で保管することや、武器、書類、家財道具、衣類などを持ちだすよう指示が出された。代官所から慌ただしく持ち出された武器類は桜井寺へ、書類や衣類は講御堂寺(こうみどうじ)へ納められた。

(明西寺)
 天誅組に襲撃された五條代官所は、邸内で酒宴が開かれていて十三人の役人と鈴木代官の妻、手代梅田平三郎の妻、それに按摩の嘉吉がいた。その中の一人、取次役木村祐治郎は傷を負いながらその場を脱し、大島村(五條市五條四丁目辺り)まで逃げ、同村の戸長中西三郎兵衛に助けられて明西寺の太鼓堂に匿われた。しかし、翌日、天誅組先鋒の数名が捜索にきて、中西戸長に木村祐治郎の居場所を問い詰めた。その言葉は土佐弁だったという。もはや逃れることはできないと覚悟を決めた木村は、翌日、宇智川の橋の下で割腹して果てた。


明西寺


(極楽寺)


森田文庵墓

 節斎の父森田文庵の墓である。


小林道隆墓

 小林道隆は、五条の医師。森田節斎とも交流があった。

極楽寺墓地には、十津川郷士前木鏡之進の墓もあるはずだが、目にすることはできなかった。あとで十津川村のHPで確認したところ、のちに建て替えられたらしく、墓石はかなり新しそうである。古い墓石ばかりを見ていたため、見落としてしまったらしい。次回、リベンジである。

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御所 Ⅱ

2018年06月16日 | 奈良県
(大乗寺)
 御所の大乗寺は、高取城を攻撃しようという天誅組が軍議を開いた場所である。無防備と思われていた高取城が、天誅組が滞陣していた重坂付近まで斥候を出していたことが判明し、意外にも十分な警戒態勢を敷いていると認識した松本奎堂と藤本鉄石の両総裁は、敵の様子を探った上で吉村虎太郎の支隊と連絡を取り、そこから城を攻撃しようと提案した。しかし、血気にはやる若い隊士から即時攻撃の声が上がり、中山忠光もそれに同調したため、進発が決まった。


大乗寺

(風の森神社)
 風の森神社には、昭和五十八年(1983)、天誅組布陣百二十年記念して建碑された石碑がある。石碑には、西口紋太郎氏の「天誅組重坂峠」の一節が刻まれている。

――― 初秋の爽やかな風が吹き抜ける時、吉村寅太郎の率いる天誅組第二隊の志士は到着し陣を布いたのである。
 そして、鎖国日本の夜明けを告げる陣太鼓の音がこの頂上より大和一国に轟き渡りホラ貝の音が高らかに鳴り響いた。
 それは文久三年(1863)八月二十五日の昼頃であった。


風の森神社


天誅組布陣百二十年記念碑

(風の森峠)


風の森峠


風の森

 風の森峠では、色っぽいお姉さん?が出迎えてくれる。
 風の森は、大和高田、御所から五條に向かう下街道、高野街道の峠である。文久三年(1863)八月十六日、決起の報せを聞いた伴林光平は、直ぐに大阪を出立し、翌日の夕方には風の森にたどり着いた。

(西尾家)
 重坂(へいさか)の西尾家は、負傷した吉村虎太郎が担ぎ込まれて治療を受けたことで知られる。数年前に火事で全焼してしまい屋敷はすっかり新しくなっているが、長屋門は往時のままである。
 この家に吉村虎太郎の肌襦袢が残され、現代まで引き継がれることになった。のちに徳富蘇峰が実物を確認し、虎太郎のものと鑑定している。


西尾家


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高取 Ⅲ

2018年06月16日 | 奈良県
(町立リベルテホール)


町立リベルテホール

 高取のリベルテホールに高取藩の大砲が復元展示されている。それを見るためにわざわざ訪問したが、残念ながら休館日で、施錠されており、館内に入ることができなかった。

(国府神社)
 高取町下土佐の国府神社は、ナマコ山と呼ばれる小高い丘の上に建てられている。高取藩はこの神社の境内に大砲を据え、天誅組を砲撃した。


国府神社

(光雲寺)
 光雲寺は、南北朝時代の貞和二年(1346)に、越智伊豫入道宗林(邦澄)が、自家の菩提寺として建立して、興雲寺と名付けたのがその
起源である。戦乱により荒廃した時期もあったが、のちに京都西山浄住寺の鉄牛和尚が再興して、寺名も光雲寺と改められた。今も越智氏の墓地が山麓にあるほか、代々の高取藩主が帰依した関係で、高取藩士二十余氏の墓所ともなっている。


光雲寺

 庫裡玄関入口の扁額「越智山」の文字は、高取藩主植村家長によるもの。家長は文政年間、幕府の若年寄、老中を務めた人物である。

 高取藩士墓地の最上段に兄弟で新選組に入隊した尾関弥四郎、雅次郎ら尾関家の墓がある。


高取藩士の墓


尾関家先祖之墓

 尾関雅次郎は、文久三年六月以降、新選組に入隊したと思われ、新選組隊士としては早期に加わったメンバーである。元治元年(1864)十二月の編成では旗役として行軍の先頭を任された。慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いの後、江戸に帰還。そののちも戦い続け明治二年(1869)五月十五日、箱館弁天台場にて降伏した。明治二十五年(1892)二月、郷里高取にて死亡した。

 雅次郎の兄尾関弥四郎は、同じく文久三年(1863)六月以降新選組入隊。元治元年(1864)六月の池田屋事件では土方隊に属し、金十両、別段金五両の恩賞金を受けている。しかし、生来病弱だったらしく、慶応元年(1865)、除隊。同年十一月病死した。三十四歳。

 墓石側面には雅次郎、弥四郎と推定される名前が刻まれている。「関山楽翁」という変名は雅次郎のもの、弥四郎は「慧照院正忠良貞居士」という戒名がそれである。


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桜井 Ⅱ

2018年06月16日 | 奈良県
(今西酒造)
 桜井市三輪の今西酒造は万治三年(1660)の創業という、超老舗である。日本にはこのような息の長い老舗が多い。私事ながら、私の御本家は江戸時代から京都で油屋を営む商家である。下長者町の商店街で化粧品店を続けていたが、時代の流れに逆らえず、今年(平成三十年)の五月末で閉店することが決まったという。ニュースにもならない話であるが、個人的にはとても寂しいことである。


今西酒造

 文久三年(1863)の天誅組の騒乱では、今西酒造で、天誅組を匿ったと伝えられている。

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橿原 Ⅱ

2018年06月16日 | 奈良県
(晩成小学校)


晩成小学校

 今回の奈良探訪は、橿原から桜井、高取、御所、五條、下市経由で十津川に至るという長距離ドライブとなる。十津川村は七年振りの訪問となる。天気にも恵まれ、最高の史跡探訪の旅となった。


谷三山先生像

 最初の訪問地は橿原市の谷三山関係史跡である。前回探し当てられなかった谷三山の墓に再挑戦である。
 まず晩成小学校で谷三山の坐像を見る。布袋さんのような表情に思わずこちらも微笑みを返したくなるようなニコニコっぽい像である。生前の三山もこの像のように包容力のある人柄だったのであろう。

(八木醍醐共同墓地)
 手元の書籍によれば、谷三山の墓は、「晩成小学校の南の墓地にある」ということだったので、前回訪問時はひたすら小学校の南の墓地を歩き回った。しかし、実際には小学校の西側に所在する八木醍醐共同墓地内に在る。この墓地に行き着くことができれば、三山の墓を発見するのはそう難しいことではない。


三山谷先生之墓

(神武天皇陵)
 文久三年(1863)八月十三日、大和行幸の詔(みことのり)が発せられた。孝明天皇が春日大社、神武天皇陵を参拝して、攘夷成功を祈願するというものである。神武天皇陵は、橿原市内大久保町に所在している。天誅組は大和行幸の先鋒として五條代官所を襲い、大和で義兵を募って行幸を迎えようとした。しかし、同年八月十八日の政変により、一転して天誅組は賊となった。


神武天皇陵

 「天皇陵の謎」(矢澤高太郎著 文春新書)によれば、神武天皇陵はまさに天誅組が挙兵した文久三年(1863)に造営されたものだという。「延喜式」には神武天皇陵は畝傍山の北東にあったことが記載されていたが、それから推定して三カ所が候補にあがっていた。候補地それぞれについて学者や研究家から主張があった。現在、神武天皇陵のある場所は、天誅組にも参加した伴林光平も推していた。
 最終的にこの場所を神武天皇陵と決めた理由の一つは、孝明天皇の大和行幸が決まり、神武天皇陵の行幸の時期が迫っており、短期間に築造を仕上げるにはこの場所が最適だったからだという。なかなか面白い論考なので、詳細はこの本を一読願う。

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板宿

2018年06月09日 | 兵庫県
(禅昌寺)


禅昌寺

 長田の北方、板宿はとりたてて特徴のある街ではない。駅の周辺に商店街があり、住宅が密集している。県道22号線を北西に十五分ほど歩くと禅昌寺という古刹がある。境内に幼稚園がある、広い境内を有するお寺である。参道途中に伊藤博文の漢詩碑がある。

兵庫県知事を務めた若き日の伊藤博文が、禅昌寺まで観楓に訪れた際に詠んだ漢詩が刻まれている。昭和二十六年(1951)の建立。

聞通老僧移錫処延文遺跡
尚存留満山紅葉無人稀
風色蕭々古寺秋


伊藤博文歌碑

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兵庫

2018年06月09日 | 兵庫県
(八王寺)


八王寺


苦楽松翁墓(工楽松右衛門顕彰碑)

 兵庫の八王寺に工楽松右衛門の顕彰碑がある。松右衛門は、兵庫の北風別家喜多仁平家に住み、研究を重ねて松右衛門帆の開発に成功した。これにより遠方航海が可能となり、大いに海運業が隆盛した。これを顕彰するものである。

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舞子 Ⅱ

2018年06月09日 | 兵庫県
(舞子ビラ神戸)
 この日は快晴であったが、妙に風の強い日であった。海から絶え間なく吹き付ける烈風のため、芝生のガーデンでのバイキングは中止となり、それどころか庭に立ち入ることさえできなかった。


舞子ビラ神戸

 かつてこの地は、有栖川宮家別邸があった。明治二十一年(1888)の夏、有栖川熾仁親王は避暑にきてこの丘陵にのぼり、海を眺めて「これこそ天下の絶景」と感嘆した。明治二十六年(1893)、この地に別邸の建設を始め、翌年秋には建物が竣工したが、その年の暮れ、日清戦争で広島大本営に出仕中、病気にかかり、明治二十八年(1895)一月十五日、竣工間もないこの別邸にて療養ののち逝去した。熾仁親王の弟威仁親王もこの別邸を愛し、しばしば逗留した。明治天皇もこの別邸を非常に懐かしく思い、明治三十三年(1900)の兵庫県下行幸、明治三十五年(1902)の陸軍特別演習、明治四十一年(1908)の海軍特別大演習の際など、いずれもこの別邸に宿泊した。大正六年(1917)には住友家がこれを譲り受けて迎賓館として利用した。終戦後、米軍によって館内は洋式に改められ、その後、オリエンタルホテルがこれを引き継いで経営した。昭和四十一年(1966)、神戸市が買収して、「市民いこいの家 舞子ビラ」として発足した。さまざまな曲折を経て現在は舞子ビラ神戸として営業を続けている。


舞子ビラ神戸内 有栖川家関係の展示
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高砂

2018年06月09日 | 兵庫県
(十輪寺)
 幕末維新から時代は少し遡るが、高砂は松右衛門帆で有名な工楽松右衛門の出身地である。松右衛門ゆかりの史跡を歩いてみた。


十輪寺

 周辺はいくつもの寺院が軒を連ねる寺町となっているが、その中の十輪寺はとりわけ広い墓地を持つ寺院である。
 境内に入って左手の古い墓域に工楽松右衛門の墓がある。一見して奇妙な形の墓石であるが、これは松右衛門帆を意匠したもので、兵庫の八王寺の顕彰碑も同じ形をしている。


工楽松翁塚

 工楽松右衛門の墓の向かい側に美濃部家の墓がある。その中央が最後の申義堂教授美濃部秀芳の墓である。美濃部秀芳は、蘭方医美濃部秀軒の二男。旧加東郡上三草村の蘭方医西山静斎に師事し、その後父秀軒に教えを受け、西洋医術を修めた。医師をつとめながら申義堂で講義を行った。明治四年(1871)に申義堂が廃校となると、明治九年(1876)、飾磨県の医務取締役に任じられ、明治二十二年(1889)の町村制施行後は高砂町会議員、明治二十六年(1893)から四年間にわたって第二代高砂町長を務めた。次男は憲法学者の美濃部達吉。達吉の長男は東京都知事を務めた美濃部亮吉という家系である。


美濃部秀芳先生墓

 秀芳の墓は、かつて高砂墓地にあったが、のちに十輪寺に移された。向かって左手は妻悦のもの、右は父秀軒夫妻の墓石である。表面は摩滅してほとんど文字は読めないが、両側面と裏側に事績が刻まれている。書は日下部東作。


翠影軒棠窓良意居士(三谷茅鹿の墓)

 三谷茅鹿は、やはり申義堂教授をつとめた三谷松園の長男。小林梧陽に学び、申義堂教諭に就いた。明治八年(1875)、飾磨県第六区第一小区(高砂・荒井村・小松原村)の副区長をつとめた。明治十二年(1879)没。

 小林梧陽は、通称利右衛門。菅野松塢、三浦松石に学び、文久三年(1863)には一時休校していた申義堂を再開して教鞭をとった。二年余りの教授期間の後、慶應元年(1865)亡くなった。墓碑銘は河野鉄兜。



鏘々庵浄空貞覺梧陽居士(小林梧陽の墓)

(申義堂)
 十輪寺の向い側に、文化年間に設立された申義堂が再現されている。庶民のための学問所というのが特徴で、高砂出身の菅野松塢、三浦松石、美濃部秀芳らが教鞭をとった。
 私が訪れた時、ちょうど無料公開中で、ゆっくり内部を拝見することができた。


申義堂

高砂に申義堂が開かれたのは、時の姫路藩家老河合寸翁が文化九年(1812)に現地を見分して学校の設立を命じたことに始まる。寸翁は、その後、文政四年(1821)に学問所仁寿山校を開設している。申義堂には、寸翁の筆による「申義堂」の書が残されている。


申義堂(河合寸翁書)

 申義堂は明治四年(1871)に廃校となり、建物は姫路光源寺の説教所として移築された。その後、軍隊倉庫として利用され、西井ノ口自治会倉庫として使用されていたが、平成二十四年(2012)、現在地(十輪寺の向かい側)に復元された。

(工楽松右衛門旧宅)
 十輪寺から西側、今津町から西堀川までの街並みは魚町と呼ばれる。かつてこの場所に瀬戸内から上がる魚介類を売買する魚市場や魚問屋があったことによる。現在、魚町には工楽松右衛門旧宅が往時の姿そのままに維持保存されている。


旧工楽邸

(河合耆三郎生誕地)


河合耆三郎生誕地

 新選組で勘定方をつとめた河合耆三郎は、高砂今津町の出身で、生家は富裕な米問屋であった。耆三郎は河合家の長男に生まれたが、世の中を変えるには侍にならなければならないと思い詰め、新選組に入隊した。実家で培った算盤と書道の腕を見込まれ、勘定方として隊費の管理を任された。池田屋事件にも参加し褒賞金を得ている。慶応二年(1866)二月、組の資金数十両を紛失した責を問われて粛清された。真相は不明。享年二十九。実家は耆三郎が切腹させられたことを大変怒り、壬生寺には新選組が建てた墓とは別に立派な墓石を建立した。

(高砂神社)


高砂神社


工楽松右衛門像

 現在、高砂神社のある場所は、江戸時代初期、池田輝政が姫路に入って姫路城を築城した後、播磨の海の守りを固めるために高砂城を築いた。ちょうどその跡地となる。高砂城は、元和元年(1615)の一国一城令により破棄され、わずか数年という短命に終わった。

 高砂神社に工楽松右衛門の銅像が建てられている。
 工楽松右衛門は、寛保三年(1743)、高砂に生まれた。幼少の頃より改良や発明に興味を示した松右衛門は、従来の脆弱な帆布の代わりに播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功した。この帆布は「松右衛門帆」と呼ばれてまたたく間に全国の帆船に用いられるようになった。松右衛門は、幕府の命を受けて千島列島択捉島に埠頭を築き、箱館ではドックを作った。これらの功により「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」という姓を与えられた。その後も優れた築港技術者として活躍し、高砂港や鞆の浦の防波堤などにその足跡を残した。松右衛門の発明は、荒巻鮭、石船、砂船、ろくろ船、石釣船などに及んでいる。文化九年(1812)没。


松右衛門帆

 高砂駅前の土産物屋では、今も松右衛門帆を素材にした小物を取り扱っている。


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