史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

国分寺

2018年06月02日 | 東京都
(東京経済大学国分寺キャンパス)
 東京経済大学は、大倉喜八郎が創立した大倉商業学校がその前身となっている。大倉喜八郎は、国際通商に必要な商業学の振興と人材養成の必要性を痛感し、明治三十三年(1900)、当人の還暦を契機として、渋沢栄一、石黒忠悳、渡邉洪基らに諮って創立した学校で、戦後東京経済大学へと発展した。


東京経済大学


大倉喜八郎像
建学の精神「進一層」

 東京経済大学の図書館は、建学の精神にならって「進一層館」と名付けられている。その前に大倉喜八郎像が建てられている(国分寺市南町1‐7‐34)。
 大倉喜八郎は、(1837)に新発田藩に生まれ、十七歳のとき江戸に出て商売に従事した。明治五年(1872)、長期欧米視察に出て、帰国後大倉組商会(大倉財閥の源)を設立した。明治三十三年(1900)、大倉商業学校を創立(のちに大倉高等商業学校に昇格)。大正四年(1915)、男爵を授爵し、翌々年には社会に貢献することを目的に大倉集古館を設立した。昭和三年(1928)、九十歳にて逝去。

(殿ヶ谷戸庭園)
 国分寺の駅から徒歩数分という場所に緑におおわれた殿ヶ谷戸庭園がある(国分寺市南町2‐16)。
 この庭園は、三菱合資会社の社員で、のちに満鉄副総裁、貴族院議員などを務めた江口定條(さだえ)が構えた別荘「随宜園」を、三菱合資会社の取締役岩崎彦彌太(弥太郎の孫)が買い取ったものである。四季様々な植物を楽しむことができる。入園料百五十円。


殿ヶ谷戸庭園 紅葉亭

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秋葉原 Ⅱ

2018年06月02日 | 東京都
(神田和泉町)
 神田和泉町の町名は、この界隈に津藩藤堂家の上屋敷があったことに由来している。藤堂家が代々和泉守を名乗っていたことから、和泉町と呼ばれるようになった(正式には明治五年(1872)より)。
 維新後、津藩上屋敷跡には東京医学所(現・東京大学医学部附属病院の前身)を設立し、明治七年(1874)には隣接する出羽鶴岡藩酒井家中屋敷跡に文部省医務局薬場を設置した。
 藤堂家上屋敷跡を示すものは少ないが、YKK80ビル(千代田区神田和泉町1‐1)の周囲に植えてある樹々は、代々藤堂家の植木職を務め、江戸を代表する植木屋伊藤伊兵衛ゆかりの園芸植物約三十種類が植えられている。


YKK80ビル(津藩上屋敷跡)

 和泉公園(千代田区神田和泉町1‐300)は数少ない津藩上屋敷の遺構である。


和泉公園

(スーパーライフ)
 スーパーライフのある辺りが、鶴岡藩酒井家中屋敷跡に相当する。国立衛生試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)発祥の地である。明治七年(1874)三月、我が国最初の国営医薬品試験研究機関東京司薬場として発足した。当初は中央区日本橋博労町にあったが、明治八年(1875)、当地に移転して、本格的業務を開始した。昭和二十年(1945)の東京大空襲により罹災し、世田谷区上用賀に移転し、現在は川崎市に再移転している。


国立衛生試験所発祥の地

 ライフに隣接する三井記念病院は、安政五年(1858)に江戸お玉が池付近に開設された種痘所から発展した東京帝国大学医科大学附属第二病院跡地(現在地)に財団法人三井慈善病院として明治四十二年(1909)に開院したのがその始まりである。

 三井記念病院の道路を挟んで北側(高層マンションの建っている)辺りが、対馬藩上屋敷跡となる。残念ながら、遺構らしきものは見当たらない。


対馬藩上屋敷跡

(和泉橋)
 昭和通りを南進し、神田川に架かる和泉橋を渡ったところが岩本町である。江戸期後半になると、柳原土手に沿った地域には、古着を扱う露店が集まっていた。明治に入ってからもその伝統は引き継がれ、多いときには四百軒もの古着屋が軒を連ねていた。
 明治六年(1873)になると土手が取り壊され、明治十四年(1881)には東京市内の古着商業者らによって岩本町古着市場が開設され、東京における衣類産業の中心地となった。
 しかし、大正十二年(1923)の関東大震災で、甚大な被害をうけ、震災後の区画整理により露店は撤去された。第一次世界大戦後には、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及することになり、当地で扱う品目も、古着から洋服、特に廉価な既製服へと転換した。
 現在、この地には既製服問屋街発祥の地という千代田区教育委員会の建てた説明札が建てられている(千代田区岩本3‐11‐15付近)。


既製服問屋街発祥の地


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竹橋 Ⅲ

2018年06月02日 | 東京都
(国立公文書館)
 国立公文書館にて平成三十年春の特別展「江戸幕府、最後の闘い―幕末の「文武」改革―」を開催中である。国立公文書館次長のご案内で展示を拝見させていただいた。
 幕末の幕府は「文武」に改革を進めた。「文」における改革の端緒は寛政二年(1790)の昌平坂学問所の開設であろう。あまり知られていないことであるが、直参のみならず藩士、郷士、浪人など広く受け入れたことが特徴である。時代はずっと下るが、安政二年(1855)に開かれた長崎海軍伝習所にしても、幕臣以外にも雄藩の藩士に門戸を開いた。


平成三十年春の特別展
「江戸幕府最後の闘い ―幕末の「文武」改革」

 ペリー来航以来、幕府は洋学を取り入れ、陸海軍の洋式化を進めた。その改革の方向は決して間違っていなかった。明治を迎える頃、幕臣には多様な人材が育っていた。その数、質とも、薩長を大きく上回っていた。この日の展示でも紹介されていた、武田斐三郎、向山黄村、堀達之助、中村敬宇、中條景昭らはその好例である。明治新政府も旧幕臣の知識や能力に頼らざるを得なかった。
 こうしてみると、これだけの人材を抱えていながら、どうして徳川幕府は崩壊してしまったのか不思議なほどである。突き詰めれば、幕府が外様雄藩の政治参加を認めなかったこと、政治の主導権を譲ろうとしなかったことが、幕府の命運を縮める結果に繋がった。ある政治学者が慶喜のことを「所詮、幕府を滅亡に至らせた程度の英明さ」と評したが、まさに的確な慶喜評である。

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芝公園 Ⅴ

2018年06月02日 | 東京都
(丸山古墳跡)


伊能忠敬測地遺功表

 芝公園の一角に丸山古墳という古墳があり、その頂上に一つの石碑がある。もともとこの地には明治二十二年(1889)に東京地学協会が「贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表」を建設したが、第二次世界大戦の戦火によって失われ、昭和四十年(1965)に再建されたのが現在の石碑である。伊能忠敬の測量の起点となったのは、芝公園近くの高輪大木戸であり、その功績を顕彰するものである。

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所沢 Ⅱ

2018年06月02日 | 埼玉県
(狭山不動寺)


西武ドーム
(メットライフドーム)


狭山不動寺

 西武狭山線西武球場前駅の改札を出ると、西武ドームの目の前である。ちょうどこの日は西武ライオンズと千葉ロッテ・マリーンズの公式戦が組まれており、駅前はたくさんの野球フアンでごった返していた。開幕からライオンズは好調を持続していて、応援にも力が入るというものである。
 西武ドームを背にして、県道を渡ったところに狭山不動寺がある。

 狭山不動寺には各地の歴史的建造物が移築されており、テーマパークさながらの様相を呈している。最初に出会うのが東京芝の徳川秀忠の御廟に建立されていた勅額門、次いで御成門が出迎えてくれる。御成門には飛天の彫刻や絵画が描かれていて、朝鮮渡来の天人門といわれている。建立は寛永九年(1632)。


御成門 「飛天」


不動寺総門

 本堂前の総門は、長州毛利家の江戸屋敷の門である。素材は全てけやきで、直線を巧みに組み合わせた武家屋敷門である。


桜井門

 桜井門と呼ばれる山門が境内の一番奥に建てられている。この門は、奈良県五條市桜井寺から移設されたものである。桜井寺は、文久三年(1863)に蹶起した天誅組が本陣を置いた寺である。なお、桜井寺の本堂は、元箱根の桜井茶屋に移設されている。


羅漢堂

 羅漢堂は、明治二十八年(1895)、井上馨が明治天皇、昭憲皇太后からの御下賜金を基として、山県有朋、伊藤博文、大隈重信らの発起で、奈良二月堂の経堂を模倣し、名工根本茂樹により公の屋敷内に建立されたものである。戦災でこの御堂だけが残り、当主の寄贈を受けて不動寺境内に移築された。山門は、「天下の糸平」こと元田中平八郎邸から移築したもの。羅漢堂の周囲に置かれている青銅製の唐金燈籠は、東京芝の台徳院(二代将軍秀忠)の霊廟に建てられていたもので、全国の大名から献納されたものである。


弁天堂

 弁天堂は、彦根の清凉寺にあったもの。井伊直孝の息女が父直孝の追善菩提のために建立したもので、建立年は、万治二年(1659)~元禄六年(1693)と考えられる。

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