(東京経済大学国分寺キャンパス)
東京経済大学は、大倉喜八郎が創立した大倉商業学校がその前身となっている。大倉喜八郎は、国際通商に必要な商業学の振興と人材養成の必要性を痛感し、明治三十三年(1900)、当人の還暦を契機として、渋沢栄一、石黒忠悳、渡邉洪基らに諮って創立した学校で、戦後東京経済大学へと発展した。
東京経済大学
大倉喜八郎像
建学の精神「進一層」
東京経済大学の図書館は、建学の精神にならって「進一層館」と名付けられている。その前に大倉喜八郎像が建てられている(国分寺市南町1‐7‐34)。
大倉喜八郎は、(1837)に新発田藩に生まれ、十七歳のとき江戸に出て商売に従事した。明治五年(1872)、長期欧米視察に出て、帰国後大倉組商会(大倉財閥の源)を設立した。明治三十三年(1900)、大倉商業学校を創立(のちに大倉高等商業学校に昇格)。大正四年(1915)、男爵を授爵し、翌々年には社会に貢献することを目的に大倉集古館を設立した。昭和三年(1928)、九十歳にて逝去。
(殿ヶ谷戸庭園)
国分寺の駅から徒歩数分という場所に緑におおわれた殿ヶ谷戸庭園がある(国分寺市南町2‐16)。
この庭園は、三菱合資会社の社員で、のちに満鉄副総裁、貴族院議員などを務めた江口定條(さだえ)が構えた別荘「随宜園」を、三菱合資会社の取締役岩崎彦彌太(弥太郎の孫)が買い取ったものである。四季様々な植物を楽しむことができる。入園料百五十円。
殿ヶ谷戸庭園 紅葉亭
東京経済大学は、大倉喜八郎が創立した大倉商業学校がその前身となっている。大倉喜八郎は、国際通商に必要な商業学の振興と人材養成の必要性を痛感し、明治三十三年(1900)、当人の還暦を契機として、渋沢栄一、石黒忠悳、渡邉洪基らに諮って創立した学校で、戦後東京経済大学へと発展した。
東京経済大学
大倉喜八郎像
建学の精神「進一層」
東京経済大学の図書館は、建学の精神にならって「進一層館」と名付けられている。その前に大倉喜八郎像が建てられている(国分寺市南町1‐7‐34)。
大倉喜八郎は、(1837)に新発田藩に生まれ、十七歳のとき江戸に出て商売に従事した。明治五年(1872)、長期欧米視察に出て、帰国後大倉組商会(大倉財閥の源)を設立した。明治三十三年(1900)、大倉商業学校を創立(のちに大倉高等商業学校に昇格)。大正四年(1915)、男爵を授爵し、翌々年には社会に貢献することを目的に大倉集古館を設立した。昭和三年(1928)、九十歳にて逝去。
(殿ヶ谷戸庭園)
国分寺の駅から徒歩数分という場所に緑におおわれた殿ヶ谷戸庭園がある(国分寺市南町2‐16)。
この庭園は、三菱合資会社の社員で、のちに満鉄副総裁、貴族院議員などを務めた江口定條(さだえ)が構えた別荘「随宜園」を、三菱合資会社の取締役岩崎彦彌太(弥太郎の孫)が買い取ったものである。四季様々な植物を楽しむことができる。入園料百五十円。
殿ヶ谷戸庭園 紅葉亭