goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

板宿

2018年06月09日 | 兵庫県
(禅昌寺)


禅昌寺

 長田の北方、板宿はとりたてて特徴のある街ではない。駅の周辺に商店街があり、住宅が密集している。県道22号線を北西に十五分ほど歩くと禅昌寺という古刹がある。境内に幼稚園がある、広い境内を有するお寺である。参道途中に伊藤博文の漢詩碑がある。

兵庫県知事を務めた若き日の伊藤博文が、禅昌寺まで観楓に訪れた際に詠んだ漢詩が刻まれている。昭和二十六年(1951)の建立。

聞通老僧移錫処延文遺跡
尚存留満山紅葉無人稀
風色蕭々古寺秋


伊藤博文歌碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫

2018年06月09日 | 兵庫県
(八王寺)


八王寺


苦楽松翁墓(工楽松右衛門顕彰碑)

 兵庫の八王寺に工楽松右衛門の顕彰碑がある。松右衛門は、兵庫の北風別家喜多仁平家に住み、研究を重ねて松右衛門帆の開発に成功した。これにより遠方航海が可能となり、大いに海運業が隆盛した。これを顕彰するものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舞子 Ⅱ

2018年06月09日 | 兵庫県
(舞子ビラ神戸)
 この日は快晴であったが、妙に風の強い日であった。海から絶え間なく吹き付ける烈風のため、芝生のガーデンでのバイキングは中止となり、それどころか庭に立ち入ることさえできなかった。


舞子ビラ神戸

 かつてこの地は、有栖川宮家別邸があった。明治二十一年(1888)の夏、有栖川熾仁親王は避暑にきてこの丘陵にのぼり、海を眺めて「これこそ天下の絶景」と感嘆した。明治二十六年(1893)、この地に別邸の建設を始め、翌年秋には建物が竣工したが、その年の暮れ、日清戦争で広島大本営に出仕中、病気にかかり、明治二十八年(1895)一月十五日、竣工間もないこの別邸にて療養ののち逝去した。熾仁親王の弟威仁親王もこの別邸を愛し、しばしば逗留した。明治天皇もこの別邸を非常に懐かしく思い、明治三十三年(1900)の兵庫県下行幸、明治三十五年(1902)の陸軍特別演習、明治四十一年(1908)の海軍特別大演習の際など、いずれもこの別邸に宿泊した。大正六年(1917)には住友家がこれを譲り受けて迎賓館として利用した。終戦後、米軍によって館内は洋式に改められ、その後、オリエンタルホテルがこれを引き継いで経営した。昭和四十一年(1966)、神戸市が買収して、「市民いこいの家 舞子ビラ」として発足した。さまざまな曲折を経て現在は舞子ビラ神戸として営業を続けている。


舞子ビラ神戸内 有栖川家関係の展示
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂

2018年06月09日 | 兵庫県
(十輪寺)
 幕末維新から時代は少し遡るが、高砂は松右衛門帆で有名な工楽松右衛門の出身地である。松右衛門ゆかりの史跡を歩いてみた。


十輪寺

 周辺はいくつもの寺院が軒を連ねる寺町となっているが、その中の十輪寺はとりわけ広い墓地を持つ寺院である。
 境内に入って左手の古い墓域に工楽松右衛門の墓がある。一見して奇妙な形の墓石であるが、これは松右衛門帆を意匠したもので、兵庫の八王寺の顕彰碑も同じ形をしている。


工楽松翁塚

 工楽松右衛門の墓の向かい側に美濃部家の墓がある。その中央が最後の申義堂教授美濃部秀芳の墓である。美濃部秀芳は、蘭方医美濃部秀軒の二男。旧加東郡上三草村の蘭方医西山静斎に師事し、その後父秀軒に教えを受け、西洋医術を修めた。医師をつとめながら申義堂で講義を行った。明治四年(1871)に申義堂が廃校となると、明治九年(1876)、飾磨県の医務取締役に任じられ、明治二十二年(1889)の町村制施行後は高砂町会議員、明治二十六年(1893)から四年間にわたって第二代高砂町長を務めた。次男は憲法学者の美濃部達吉。達吉の長男は東京都知事を務めた美濃部亮吉という家系である。


美濃部秀芳先生墓

 秀芳の墓は、かつて高砂墓地にあったが、のちに十輪寺に移された。向かって左手は妻悦のもの、右は父秀軒夫妻の墓石である。表面は摩滅してほとんど文字は読めないが、両側面と裏側に事績が刻まれている。書は日下部東作。


翠影軒棠窓良意居士(三谷茅鹿の墓)

 三谷茅鹿は、やはり申義堂教授をつとめた三谷松園の長男。小林梧陽に学び、申義堂教諭に就いた。明治八年(1875)、飾磨県第六区第一小区(高砂・荒井村・小松原村)の副区長をつとめた。明治十二年(1879)没。

 小林梧陽は、通称利右衛門。菅野松塢、三浦松石に学び、文久三年(1863)には一時休校していた申義堂を再開して教鞭をとった。二年余りの教授期間の後、慶應元年(1865)亡くなった。墓碑銘は河野鉄兜。



鏘々庵浄空貞覺梧陽居士(小林梧陽の墓)

(申義堂)
 十輪寺の向い側に、文化年間に設立された申義堂が再現されている。庶民のための学問所というのが特徴で、高砂出身の菅野松塢、三浦松石、美濃部秀芳らが教鞭をとった。
 私が訪れた時、ちょうど無料公開中で、ゆっくり内部を拝見することができた。


申義堂

高砂に申義堂が開かれたのは、時の姫路藩家老河合寸翁が文化九年(1812)に現地を見分して学校の設立を命じたことに始まる。寸翁は、その後、文政四年(1821)に学問所仁寿山校を開設している。申義堂には、寸翁の筆による「申義堂」の書が残されている。


申義堂(河合寸翁書)

 申義堂は明治四年(1871)に廃校となり、建物は姫路光源寺の説教所として移築された。その後、軍隊倉庫として利用され、西井ノ口自治会倉庫として使用されていたが、平成二十四年(2012)、現在地(十輪寺の向かい側)に復元された。

(工楽松右衛門旧宅)
 十輪寺から西側、今津町から西堀川までの街並みは魚町と呼ばれる。かつてこの場所に瀬戸内から上がる魚介類を売買する魚市場や魚問屋があったことによる。現在、魚町には工楽松右衛門旧宅が往時の姿そのままに維持保存されている。


旧工楽邸

(河合耆三郎生誕地)


河合耆三郎生誕地

 新選組で勘定方をつとめた河合耆三郎は、高砂今津町の出身で、生家は富裕な米問屋であった。耆三郎は河合家の長男に生まれたが、世の中を変えるには侍にならなければならないと思い詰め、新選組に入隊した。実家で培った算盤と書道の腕を見込まれ、勘定方として隊費の管理を任された。池田屋事件にも参加し褒賞金を得ている。慶応二年(1866)二月、組の資金数十両を紛失した責を問われて粛清された。真相は不明。享年二十九。実家は耆三郎が切腹させられたことを大変怒り、壬生寺には新選組が建てた墓とは別に立派な墓石を建立した。

(高砂神社)


高砂神社


工楽松右衛門像

 現在、高砂神社のある場所は、江戸時代初期、池田輝政が姫路に入って姫路城を築城した後、播磨の海の守りを固めるために高砂城を築いた。ちょうどその跡地となる。高砂城は、元和元年(1615)の一国一城令により破棄され、わずか数年という短命に終わった。

 高砂神社に工楽松右衛門の銅像が建てられている。
 工楽松右衛門は、寛保三年(1743)、高砂に生まれた。幼少の頃より改良や発明に興味を示した松右衛門は、従来の脆弱な帆布の代わりに播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功した。この帆布は「松右衛門帆」と呼ばれてまたたく間に全国の帆船に用いられるようになった。松右衛門は、幕府の命を受けて千島列島択捉島に埠頭を築き、箱館ではドックを作った。これらの功により「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」という姓を与えられた。その後も優れた築港技術者として活躍し、高砂港や鞆の浦の防波堤などにその足跡を残した。松右衛門の発明は、荒巻鮭、石船、砂船、ろくろ船、石釣船などに及んでいる。文化九年(1812)没。


松右衛門帆

 高砂駅前の土産物屋では、今も松右衛門帆を素材にした小物を取り扱っている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姫路 Ⅲ

2018年06月09日 | 兵庫県
(河合家墓所)
 今年(平成30年)のゴールデンウィークは、久しぶりに京都の実家を拠点に、関西の史跡を訪問することにした。初日は兵庫県の姫路、高砂それに神戸市内を回り、翌日は奈良県の橿原から南下して十津川村に泊り、三日目は田辺に抜けてそこから和歌山県の沿岸部を北上した。最終日は、帰りの新幹線が混雑することが予想されたので、京都市内の史跡を少し見ただけで、両親と昼食を済ました後、夕食前に八王子に戻った。レンタカーの走行距離は八百キロメートル近くに至り、歩数は初日だけで三万歩を越えた。とても充実した四日間であった。


河合家墓所への登り坂

 最初の訪問地は、姫路市兼田の河合家墓所である。前回の姫路訪問の際、仁寿山まで往復して河合家墓所に行き着くことができなかった。その再挑戦というわけである。
 当初は観光案内所で自転車を借りて、兼田まで往復するつもりであったが、天気予報によればどうもこの日は雨が降る、それも場所によっては強い雨になる、と盛んに報じていたので、自転車は諦めて路線バスを使うことにした(結果的に雨には遭わなかったが)。姫路駅南口から最寄りの東兼田バス停までほんの十分程度のことである。乗ってしまえば直ぐだが、本数が一時間に二~三本と限られているので、うまく時間を合わせなくてはならない。バス停から急な坂を登ると静かな空間に河合家の墓所がある。


河合家墓所

 河合家は代々姫路藩酒井家の家老を務める家である。それ以前の酒井家は前橋藩を与えられていた。寛延二年(1749)、姫路への転封に成功したが、家老河合定恒は家康から任された要衝の地を捨てるのは不忠であるとこれに反対した。藩主の説得を受け了承した定恒は、先行して姫路に入ったが、折からの豪雨により川が決壊し、定恒は独断で米蔵から備蓄米を領民に与え、この責任をとって自害した。
 寛政から天保に至る長期にわたって家老を務め、姫路藩の財政再建に大きな功績を残した河合寸翁は、その孫である。河井家墓所に定恒、寸翁、屛山ら一族の墓がある。


姫路故寸翁河合君之墓(河合寸翁の墓)


河合屛山府君之墓(河合屛山の墓)

 河合屛山は、享和三年(1803)の生まれ。父は藩の江戸詰め藩士松下高知。姫路藩家老河合準之助(寸翁)の養子となった。幼にして藩校仁寿山校に学び、天保六年(1835)、三十一歳の時、家老職を継いだ。禄五千石は多すぎるとして二千石を返還している。天保十二年(1841)、江戸邸に祗役中、幕旨に逆らって帰国謹慎を命じられ、爾来幽居六年に及んだ。嘉永六年(1853)には退隠して屛山と号した。万延・文久年間、国事多端となると、京に出て同族総兵衛らを指揮して国事に励み、姫路藩勤王党の首領として活躍した。文久二年(1862)、藩主酒井忠績の上京するや、執政に挙げられたが、藩主に勤王を主張して忌諱に触れ、元治元年(1864)、江戸藩邸で謹慎を命じられた。個の際、同志の中には刑死する者が多かった。慶應四年(1868)五月、朝命に接して藩政を執り、新藩主酒井忠邦を助けて明治新政府協力の方針をとった。同年十一月、全国にさきがけて版籍奉還を朝廷に建白したが、採用されず。明治二年(1869)、姫路藩大参事に任じられ、引き続き貨幣制度の改革を政府に建言し、また貿易振興を主張した。明治三年(1870)、辞任。明治九年(1876)、年七十四にて没。

(国府寺家本陣跡)


国府寺家本陣跡

 姫路駅前から姫路城に向かって延びるメインロードを横切る形で東西に商店街が軒を連ねるが、ちょうどその交差点の南西角にかつて本陣があった。東西に走る道は、かつての西国街道に当たる。本陣は国府寺氏が務めた。国府寺氏は、黒田官兵衛を援けて転戦し、豊臣秀吉の知遇を得て、江戸時代には町家、在所の代表である大年寄となり、藩主が初めて入城する際には必ずその邸宅に立ち寄るのがしきたりとなっていたという名家である。廃藩置県後、藩主とともに東京に移住した。

(姫路神社)
 姫路城の北端に近い場所に姫路神社がある。連休中ということもあり、相変わらず姫路城は凄い人出であったが、さすがに姫路神社まで来ると人影はまばらであった。姫路神社は、旧藩主酒井氏を慕う領民が、明治十二年(1879)に市内に創建したものが端緒となり、その後大正十四年(1925)に現在地に移転している。


姫路神社

 姫路神社の境内社として寸翁神社がある。その名称の語るとおり、河合寸翁を祀る神社である。社殿の前に河合寸翁の胸像がある。


河合寸翁像


河合屛山頌徳碑

 境内に河合屛山、境外の好古園側には寸翁の顕彰碑が建立されている。ともに大正十一年(1922)の建立。撰文は伯爵酒井忠正(阪井家宗家二十一代当主)。


河合寸翁大人頌徳碑


好古園

 好古園は、この地にあった藩校好古堂に因んだ庭園である。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする