(十輪寺)
幕末維新から時代は少し遡るが、高砂は松右衛門帆で有名な工楽松右衛門の出身地である。松右衛門ゆかりの史跡を歩いてみた。
十輪寺
周辺はいくつもの寺院が軒を連ねる寺町となっているが、その中の十輪寺はとりわけ広い墓地を持つ寺院である。
境内に入って左手の古い墓域に工楽松右衛門の墓がある。一見して奇妙な形の墓石であるが、これは松右衛門帆を意匠したもので、兵庫の八王寺の顕彰碑も同じ形をしている。
工楽松翁塚
工楽松右衛門の墓の向かい側に美濃部家の墓がある。その中央が最後の申義堂教授美濃部秀芳の墓である。美濃部秀芳は、蘭方医美濃部秀軒の二男。旧加東郡上三草村の蘭方医西山静斎に師事し、その後父秀軒に教えを受け、西洋医術を修めた。医師をつとめながら申義堂で講義を行った。明治四年(1871)に申義堂が廃校となると、明治九年(1876)、飾磨県の医務取締役に任じられ、明治二十二年(1889)の町村制施行後は高砂町会議員、明治二十六年(1893)から四年間にわたって第二代高砂町長を務めた。次男は憲法学者の美濃部達吉。達吉の長男は東京都知事を務めた美濃部亮吉という家系である。
美濃部秀芳先生墓
秀芳の墓は、かつて高砂墓地にあったが、のちに十輪寺に移された。向かって左手は妻悦のもの、右は父秀軒夫妻の墓石である。表面は摩滅してほとんど文字は読めないが、両側面と裏側に事績が刻まれている。書は日下部東作。
翠影軒棠窓良意居士(三谷茅鹿の墓)
三谷茅鹿は、やはり申義堂教授をつとめた三谷松園の長男。小林梧陽に学び、申義堂教諭に就いた。明治八年(1875)、飾磨県第六区第一小区(高砂・荒井村・小松原村)の副区長をつとめた。明治十二年(1879)没。
小林梧陽は、通称利右衛門。菅野松塢、三浦松石に学び、文久三年(1863)には一時休校していた申義堂を再開して教鞭をとった。二年余りの教授期間の後、慶應元年(1865)亡くなった。墓碑銘は河野鉄兜。
鏘々庵浄空貞覺梧陽居士(小林梧陽の墓)
(申義堂)
十輪寺の向い側に、文化年間に設立された申義堂が再現されている。庶民のための学問所というのが特徴で、高砂出身の菅野松塢、三浦松石、美濃部秀芳らが教鞭をとった。
私が訪れた時、ちょうど無料公開中で、ゆっくり内部を拝見することができた。
申義堂
高砂に申義堂が開かれたのは、時の姫路藩家老河合寸翁が文化九年(1812)に現地を見分して学校の設立を命じたことに始まる。寸翁は、その後、文政四年(1821)に学問所仁寿山校を開設している。申義堂には、寸翁の筆による「申義堂」の書が残されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/50/2bacfa1bf33fa6a04ce7321e8bcdab6a.jpg)
申義堂(河合寸翁書)
申義堂は明治四年(1871)に廃校となり、建物は姫路光源寺の説教所として移築された。その後、軍隊倉庫として利用され、西井ノ口自治会倉庫として使用されていたが、平成二十四年(2012)、現在地(十輪寺の向かい側)に復元された。
(工楽松右衛門旧宅)
十輪寺から西側、今津町から西堀川までの街並みは魚町と呼ばれる。かつてこの場所に瀬戸内から上がる魚介類を売買する魚市場や魚問屋があったことによる。現在、魚町には工楽松右衛門旧宅が往時の姿そのままに維持保存されている。
旧工楽邸
(河合耆三郎生誕地)
河合耆三郎生誕地
新選組で勘定方をつとめた河合耆三郎は、高砂今津町の出身で、生家は富裕な米問屋であった。耆三郎は河合家の長男に生まれたが、世の中を変えるには侍にならなければならないと思い詰め、新選組に入隊した。実家で培った算盤と書道の腕を見込まれ、勘定方として隊費の管理を任された。池田屋事件にも参加し褒賞金を得ている。慶応二年(1866)二月、組の資金数十両を紛失した責を問われて粛清された。真相は不明。享年二十九。実家は耆三郎が切腹させられたことを大変怒り、壬生寺には新選組が建てた墓とは別に立派な墓石を建立した。
(高砂神社)
高砂神社
工楽松右衛門像
現在、高砂神社のある場所は、江戸時代初期、池田輝政が姫路に入って姫路城を築城した後、播磨の海の守りを固めるために高砂城を築いた。ちょうどその跡地となる。高砂城は、元和元年(1615)の一国一城令により破棄され、わずか数年という短命に終わった。
高砂神社に工楽松右衛門の銅像が建てられている。
工楽松右衛門は、寛保三年(1743)、高砂に生まれた。幼少の頃より改良や発明に興味を示した松右衛門は、従来の脆弱な帆布の代わりに播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功した。この帆布は「松右衛門帆」と呼ばれてまたたく間に全国の帆船に用いられるようになった。松右衛門は、幕府の命を受けて千島列島択捉島に埠頭を築き、箱館ではドックを作った。これらの功により「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」という姓を与えられた。その後も優れた築港技術者として活躍し、高砂港や鞆の浦の防波堤などにその足跡を残した。松右衛門の発明は、荒巻鮭、石船、砂船、ろくろ船、石釣船などに及んでいる。文化九年(1812)没。
松右衛門帆
高砂駅前の土産物屋では、今も松右衛門帆を素材にした小物を取り扱っている。
幕末維新から時代は少し遡るが、高砂は松右衛門帆で有名な工楽松右衛門の出身地である。松右衛門ゆかりの史跡を歩いてみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/12/e21732b085f1356c8926707be3ddfc1d.jpg)
十輪寺
周辺はいくつもの寺院が軒を連ねる寺町となっているが、その中の十輪寺はとりわけ広い墓地を持つ寺院である。
境内に入って左手の古い墓域に工楽松右衛門の墓がある。一見して奇妙な形の墓石であるが、これは松右衛門帆を意匠したもので、兵庫の八王寺の顕彰碑も同じ形をしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/18/53cdbfed76adc2a4ae1c5dde1cdc15e1.jpg)
工楽松翁塚
工楽松右衛門の墓の向かい側に美濃部家の墓がある。その中央が最後の申義堂教授美濃部秀芳の墓である。美濃部秀芳は、蘭方医美濃部秀軒の二男。旧加東郡上三草村の蘭方医西山静斎に師事し、その後父秀軒に教えを受け、西洋医術を修めた。医師をつとめながら申義堂で講義を行った。明治四年(1871)に申義堂が廃校となると、明治九年(1876)、飾磨県の医務取締役に任じられ、明治二十二年(1889)の町村制施行後は高砂町会議員、明治二十六年(1893)から四年間にわたって第二代高砂町長を務めた。次男は憲法学者の美濃部達吉。達吉の長男は東京都知事を務めた美濃部亮吉という家系である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/4d/fbef7a23305cded4d7422fd360ed9a39.jpg)
美濃部秀芳先生墓
秀芳の墓は、かつて高砂墓地にあったが、のちに十輪寺に移された。向かって左手は妻悦のもの、右は父秀軒夫妻の墓石である。表面は摩滅してほとんど文字は読めないが、両側面と裏側に事績が刻まれている。書は日下部東作。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/33/2fcc457f965534d7ae4975d95e688d46.jpg)
翠影軒棠窓良意居士(三谷茅鹿の墓)
三谷茅鹿は、やはり申義堂教授をつとめた三谷松園の長男。小林梧陽に学び、申義堂教諭に就いた。明治八年(1875)、飾磨県第六区第一小区(高砂・荒井村・小松原村)の副区長をつとめた。明治十二年(1879)没。
小林梧陽は、通称利右衛門。菅野松塢、三浦松石に学び、文久三年(1863)には一時休校していた申義堂を再開して教鞭をとった。二年余りの教授期間の後、慶應元年(1865)亡くなった。墓碑銘は河野鉄兜。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/d2/27048e729bd45c163626de9eb67a50e5.jpg)
鏘々庵浄空貞覺梧陽居士(小林梧陽の墓)
(申義堂)
十輪寺の向い側に、文化年間に設立された申義堂が再現されている。庶民のための学問所というのが特徴で、高砂出身の菅野松塢、三浦松石、美濃部秀芳らが教鞭をとった。
私が訪れた時、ちょうど無料公開中で、ゆっくり内部を拝見することができた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/e4/4a2bb8f8e5863b8e822f8d62e750fe19.jpg)
申義堂
高砂に申義堂が開かれたのは、時の姫路藩家老河合寸翁が文化九年(1812)に現地を見分して学校の設立を命じたことに始まる。寸翁は、その後、文政四年(1821)に学問所仁寿山校を開設している。申義堂には、寸翁の筆による「申義堂」の書が残されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/50/2bacfa1bf33fa6a04ce7321e8bcdab6a.jpg)
申義堂(河合寸翁書)
申義堂は明治四年(1871)に廃校となり、建物は姫路光源寺の説教所として移築された。その後、軍隊倉庫として利用され、西井ノ口自治会倉庫として使用されていたが、平成二十四年(2012)、現在地(十輪寺の向かい側)に復元された。
(工楽松右衛門旧宅)
十輪寺から西側、今津町から西堀川までの街並みは魚町と呼ばれる。かつてこの場所に瀬戸内から上がる魚介類を売買する魚市場や魚問屋があったことによる。現在、魚町には工楽松右衛門旧宅が往時の姿そのままに維持保存されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/72/cf723266084b45b92e971fc755e63489.jpg)
旧工楽邸
(河合耆三郎生誕地)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/43/08693d2d3b8848cba58bc99854cb2195.jpg)
河合耆三郎生誕地
新選組で勘定方をつとめた河合耆三郎は、高砂今津町の出身で、生家は富裕な米問屋であった。耆三郎は河合家の長男に生まれたが、世の中を変えるには侍にならなければならないと思い詰め、新選組に入隊した。実家で培った算盤と書道の腕を見込まれ、勘定方として隊費の管理を任された。池田屋事件にも参加し褒賞金を得ている。慶応二年(1866)二月、組の資金数十両を紛失した責を問われて粛清された。真相は不明。享年二十九。実家は耆三郎が切腹させられたことを大変怒り、壬生寺には新選組が建てた墓とは別に立派な墓石を建立した。
(高砂神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/2b/2a27ba4a05ac299de60236aee853cd58.jpg)
高砂神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/ca/2b782492593199eb68116e82bc4f6ce7.jpg)
工楽松右衛門像
現在、高砂神社のある場所は、江戸時代初期、池田輝政が姫路に入って姫路城を築城した後、播磨の海の守りを固めるために高砂城を築いた。ちょうどその跡地となる。高砂城は、元和元年(1615)の一国一城令により破棄され、わずか数年という短命に終わった。
高砂神社に工楽松右衛門の銅像が建てられている。
工楽松右衛門は、寛保三年(1743)、高砂に生まれた。幼少の頃より改良や発明に興味を示した松右衛門は、従来の脆弱な帆布の代わりに播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功した。この帆布は「松右衛門帆」と呼ばれてまたたく間に全国の帆船に用いられるようになった。松右衛門は、幕府の命を受けて千島列島択捉島に埠頭を築き、箱館ではドックを作った。これらの功により「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」という姓を与えられた。その後も優れた築港技術者として活躍し、高砂港や鞆の浦の防波堤などにその足跡を残した。松右衛門の発明は、荒巻鮭、石船、砂船、ろくろ船、石釣船などに及んでいる。文化九年(1812)没。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/2a/90fcb1d06dcc93f4ec99abb0c1d499f9.jpg)
松右衛門帆
高砂駅前の土産物屋では、今も松右衛門帆を素材にした小物を取り扱っている。
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