(冨士山本宮浅間神社)
冨士山本宮浅間大社
今年の夏休みは四連休。予定を立てるのが遅かったので、足が確保できず、結局、日帰りで一日、静岡県の富士宮市と湖西市を訪ねることにした。八王子から富士宮へは一旦甲府まで出て、身延線特急に乗り換える。約三時間強の列車の旅である。
浅間神社楼門
富士宮駅を降りて歩いて十分ほどで冨士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の大きな赤鳥居の前に行き着く。この神社は、全国に千三百余りあるといわれる浅間神社の総本宮で、富士宮市はこの神社の門前町として発達した街である。
境内の東側にある湧玉池(わくたまいけ)は、富士山の清冽な雪解け水が湧き出ている池で、水が驚くほど透明である。その直ぐ横に駿州赤心隊の碑が建てられている。書は徳富蘇峰。台座には赤心隊員の名前が刻まれている。
湧玉池
駿州赤心隊之碑
赤心隊は、戊辰戦争の折、慶応四年(1868)二月二十五日、この神社の大宮司であった富士亦八郎重本が組織したものである。これに先立ち結成された遠州報国隊の幹部や尾張藩からの働きかけによって誕生したもので、主旨は賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の説く尊王の大義を体し、王政復古の御代の再現にあった。
彰忠碑
境内西側には忠魂碑が複数建立されている。彰忠碑は、日露戦争戦没者の慰霊碑で、西園寺公望の書。
(市民文化会館)
芙蓉館碑
浅間神社の西側の市民文化会館のホールの前に芙蓉館碑が置かれている。
芙蓉館は、大宮司富士亦八郎重本が東京に移住した後、富士宮における居館跡を記念するために、明治二十九年(1896)、時の衆議員議長楠本正隆が撰文、揮毫した石碑である。
(二の宮墓地)
浅間神社の西側の道を真っ直ぐ北上すると、左手に墓地が現れる。これが二の宮墓地で、敷地の一番北側に浅間神社大宮司富士家の墓地がある。
大宮司従六位勲五等富士重本大人命之霊位
富士重本は、文政九年(1826)駿河富士本宮浅間神社大宮司の家に生まれた。通称は又八郎。江戸に出て和漢の書と武術を修めた。二十歳で帰って、第四十四代大宮司として家を継いだ。その傍ら、私塾を開き、国学、漢学、兵学を教えた。慶応四年(1868)、大総督宮東下の折、同志を募って赤心隊を組織し、自ら隊長となって本部を浅間神社におき、一隊で清水港を警備した。同年四月八日、本営に従って江戸に入り守衛大隊長となり、今戸橋、麻布で戦った。十月、奥羽平定後、大総督宮に供奉して駿府で感状を受け、隊を解いた。徳川氏の駿河領有が決まると、復讐を恐れて帰郷できず、そのまま江戸に留まった(事実、同じ赤心隊の三保神社神主太田健太郎は兇徒の手により斬殺されている)。明治二年(1869)二月、軍艦春日丸で箱館に向い、海軍軍使となった。明治二十六年(1893)東京麹町区長。明治三十年(1897)四月、没。享年七十二。

冨士山本宮浅間大社
今年の夏休みは四連休。予定を立てるのが遅かったので、足が確保できず、結局、日帰りで一日、静岡県の富士宮市と湖西市を訪ねることにした。八王子から富士宮へは一旦甲府まで出て、身延線特急に乗り換える。約三時間強の列車の旅である。

浅間神社楼門
富士宮駅を降りて歩いて十分ほどで冨士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の大きな赤鳥居の前に行き着く。この神社は、全国に千三百余りあるといわれる浅間神社の総本宮で、富士宮市はこの神社の門前町として発達した街である。
境内の東側にある湧玉池(わくたまいけ)は、富士山の清冽な雪解け水が湧き出ている池で、水が驚くほど透明である。その直ぐ横に駿州赤心隊の碑が建てられている。書は徳富蘇峰。台座には赤心隊員の名前が刻まれている。

湧玉池

駿州赤心隊之碑
赤心隊は、戊辰戦争の折、慶応四年(1868)二月二十五日、この神社の大宮司であった富士亦八郎重本が組織したものである。これに先立ち結成された遠州報国隊の幹部や尾張藩からの働きかけによって誕生したもので、主旨は賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の説く尊王の大義を体し、王政復古の御代の再現にあった。

彰忠碑
境内西側には忠魂碑が複数建立されている。彰忠碑は、日露戦争戦没者の慰霊碑で、西園寺公望の書。
(市民文化会館)

芙蓉館碑
浅間神社の西側の市民文化会館のホールの前に芙蓉館碑が置かれている。
芙蓉館は、大宮司富士亦八郎重本が東京に移住した後、富士宮における居館跡を記念するために、明治二十九年(1896)、時の衆議員議長楠本正隆が撰文、揮毫した石碑である。
(二の宮墓地)
浅間神社の西側の道を真っ直ぐ北上すると、左手に墓地が現れる。これが二の宮墓地で、敷地の一番北側に浅間神社大宮司富士家の墓地がある。

大宮司従六位勲五等富士重本大人命之霊位
富士重本は、文政九年(1826)駿河富士本宮浅間神社大宮司の家に生まれた。通称は又八郎。江戸に出て和漢の書と武術を修めた。二十歳で帰って、第四十四代大宮司として家を継いだ。その傍ら、私塾を開き、国学、漢学、兵学を教えた。慶応四年(1868)、大総督宮東下の折、同志を募って赤心隊を組織し、自ら隊長となって本部を浅間神社におき、一隊で清水港を警備した。同年四月八日、本営に従って江戸に入り守衛大隊長となり、今戸橋、麻布で戦った。十月、奥羽平定後、大総督宮に供奉して駿府で感状を受け、隊を解いた。徳川氏の駿河領有が決まると、復讐を恐れて帰郷できず、そのまま江戸に留まった(事実、同じ赤心隊の三保神社神主太田健太郎は兇徒の手により斬殺されている)。明治二年(1869)二月、軍艦春日丸で箱館に向い、海軍軍使となった。明治二十六年(1893)東京麹町区長。明治三十年(1897)四月、没。享年七十二。
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