史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岡崎 Ⅶ

2014年07月10日 | 京都府

(金戒光明寺)


釋智侠(井口新助の墓)

 前回見つけられなかった井口新助の墓を探して、三たび金戒光明寺の墓地を歩いた。井口新助の墓は、文殊塔の南側にあった。墓前の「贈五位井口新助之墓」という碑が目印である。
 井口新助といわれても誰のことか思い当たらないかもしれないが、京都河原町蛸薬師の醤油屋近江屋と聞けば、思い出す人も多いだろう。近江屋は土佐藩御用達であり、井口新助も義侠心に富み、坂本龍馬を寄宿させ匿ったことで知られる。龍馬が暗殺されたとき、急を土佐藩邸に知らせたのも新助であった。慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いでは、薩長に軍資・糧食を提供し、傷病兵の看護にも協力した。明治四十三年(1910)、年七十四にて没。


贈従五位井口新助之墓

(龍光院)


龍光院

 これまで大阪府高槻市に居住していた両親が、京都市内に引っ越した。新居の様子を見るために、週末京都まで往復した。
 今回、両親が引っ越した京都の家は、私の本籍地であり、祖父の親の代からここに居を構えていた場所である。現在、三階建ての現代風の家に建て替えられてしまったが、私の子供の頃は、“ウナギの寝床”と呼ばれる、典型的な京都の長屋であった。今では京都市内でも、ウナギの寝床風の長屋はすっかり見られなくなってしまった。
 引っ越しから一か月が経過して、ようやく家の中も落ち着いてきたようである。必要とあらば、片付けを手伝うつもりであったが、ほとんど出番はない状態だったので、一日京都市内や大津市内の史跡を歩くことにした。


清實院正四位下嗣子之墓
(庭田嗣子の墓)

 最初の訪問地は、金戒光明寺の塔頭の一つ、龍光院である(左京区黒谷町39)。墓地に庭田嗣子の墓がある。木製の扉を開けると、ブザーが鳴るようになっていて、不審者の侵入を許さない仕組みなっている。中から住持さんが出てきたので、「庭田嗣子さんの墓に参りたい」旨を伝えると、すぐに教えて戴けた。
 庭田嗣子は、文政三年(1820)、京都生まれ。父は権大納言庭田重能である。仁孝天皇の代から宮廷に仕え、天皇崩御後も致仕することを許されず、孝明天皇の後宮女官の指導を命じられた。和宮の降嫁が決まると、和宮の輔導として江戸に下り、慶応三年(1867)歿するまで宮に仕えた。年四十八。

(Keyakiケヤキ)


贈正四位蒲生君平先生假寓御趾

 Keyakiケヤキ(ブライダル・ヘアメイクや着付)の前に蒲生君平仮寓跡の石碑が建っている。蒲生君平は、言わずと知れた「寛政の三奇人」の一人。天皇の陵墓が荒廃していることを嘆き、京都に来て小沢蘆庵の居宅に居候して「山陵史」を著した。

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