(御蔭通り)
明治天皇御駐輦所寒天製造場阯
下賀神社の前の道(南側)は御蔭通りと名付けられている。歯医者の隣の民家の前に「明治天皇寒天製造場阯」碑が建っている。明治十年(1877)、二月一日に行幸があった。
(本満寺つづき)
三上復一(またいち)の墓を訪ねて本満寺の墓地を歩いた。三上家の墓は複数発見したが、復一が合葬されている確信は得られなかった。
三上復一は、天保四年(1833)、京都西陣の生まれ。三上家は禁裏御寮織物司(旧織部司)に所属した六家のうちの一つで、元亀二年(1571)、大舎人座の兄部(こうべ)に任命され、宮中の織物をつかさどり、明治三年(1870)まで代々相勤めた。復一は万延元年(1860)、平田家より養子に入り、織物司三上家の最後で、文久二年(1862)越前介の口宣案を拝受した。孝明天皇の葬儀、明治天皇の即位時の様々な装束を調進し、東京遷都にも扈従したが、まもなく帰京して稼業一筋に生きた。大正八年(1919)、年八十七にて没。
三上家は今も京都市上京区紋屋町に存続しているそうだ。実家の近所なので、一度確認に行ってみたい。
(阿弥陀寺)
阿弥陀寺には織田信長、織田信忠父子の墓があることで知られる。
寺に伝わる話によれば、本能寺が襲われたという情報に接した阿弥陀寺住職清玉上人は直ちに本能寺に駆け付けた。しかし、清玉上人が目にしたのは自害して果てた信長の遺体であった。上人は信長の首をもらいうけ、闇に紛れて寺に持ち帰り、ここに葬ったといわれる。
墓地に入るには寺務所にて五百円を支払わなくてはいけない。私の目当ては、織田信長の墓ではなくて、石山基文・基正父子の墓だったのだが、石山姓の墓石すら発見することはできなかった。仕方なく織田信長・信忠父子の墓の写真を撮って撤退。
阿弥陀寺
織田信長(右)・信忠父子の墓
森蘭丸らの墓
清玉上人の墓
石山基文・基正父子の墓は阿弥陀寺ではなく、基文と江戸時代の歴代の墓は隣の仏陀寺にあります。
基正以降は東京に菩提寺が移り、西方寺(山城屋和助の墓があるお寺)にあります。
毎度有り難うございます。
次の機会に仏陀寺に挑戦してみます。
あの辺りのお寺は、ガードが固くてなかなか墓地に進入できないのが難点です。