史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

京都御所 Ⅹ

2024年01月13日 | 京都府

(博覧会場跡)

 

博覧会場跡

 

 東京遷都により京都が寂れるのを心配した京都府関係者は、明治四年(1871)、日本最初の博覧会を西本願寺で開いた。この時、伝統的産業品を網羅して展示し、京都の殖産興業を図った。第二回から第九回の博覧会は仙洞御所内で開催され、明治十四年(1881)の第十回から、御所内に建設された常設会場が使われた。大正三年(1914)以降は、岡崎の京都市勧業館が会場となった。

 

(鴨沂高校)

 鴨沂(おうき)高校正門前に「明治天皇行幸所京都府尋常中学校」碑が建てられている。明治二十年(1887)二月一日の行幸。

 

鴨沂高校

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校

 

(廬山寺つづき)

 廬山寺は、紫式部が育ち、独身時代を過ごしたのは紫式部の曽祖父藤原兼輔が建てた邸宅であり、父為時の邸宅においてであった。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したとされる。来年(令和六年(2024))の大河ドラマで舞台となる場所である。

 

贈正五位秋元正一郎(安民)墓

 

 秋元安民(やすたみ)は、文政六年(1823)の生まれ。安民は諱。通称は正一郎、正蔭、逸民、御民などと称した。姫路藩校仁寿山黌の使丁となって和漢の書を読み、のち大国隆正に就いて国学・歌道を修め、一時その養子となり名を正蔭と改めた。のち辞して本姓に復した。伴信友に従学ののち、播州三木に塾を開き、その後藩に召還されて国学寮教授となった。安政年間江戸出役中、洋書を通じて洋式帆船を研究し、藩主にその建造を進言して、同藩に全国初の様式船建造の緒を作った。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に随従して上京し、同藩勤王の首唱者として活躍したが、同年八月、京都三本木の寓所にて病没した。年四十。

 

正二位前權大納言藤原定祥卿墓

(野宮定祥の墓)

 

 野宮定祥(さだなが)は、寛政十二年(1800)の生まれ。父は左近衛権中将野宮定静。文政七年(1824)閏八月、左近衛権少将に任じられ、天保元年(1830)十二月、左近衛権中将に進み、天保六年(1835)十二月、参議となり、従三位に叙された。天保十一年(1840)七月、東宮(孝明天皇)三卿に補され、その践祚に至るまで側近として仕えた。弘化三年(1846)、石清水八幡宮臨時祭に際し、孝明天皇は特に外患を祈祷するや、その勅使を奉仕した。その後、嘉永元年(1848)二月、議奏に進んで朝政にあずかったが、嘉永四年(1851)五月、これを辞し、安政元年(1854)六月、祐宮(のちの明治天皇)非常付となり、権大納言に進んだ。安政五年(1858)、年五十九で没。

 

 定祥の長男野宮定功(さだいさ)の墓も蘆山寺にあるはずだが、特定できなかった。野宮定功は安政五年(1858)の八十八卿列参に参加するなど公武合体派公家の一人として活躍し、維新後は山陵御用掛などを務めた。

 

仁孝天皇皇子 鎔宮(のりのみや)墓

孝明天皇皇女 壽萬宮(すまのみや)墓

 

 寿万宮(すまのみや)の墓は、墓地入口に土塀に囲まれている。背伸びしてようやく墓の一部を覗くことができる。

 寿万宮は、安政六年(1859)三月の生まれ。父は孝明天皇、母は掌侍堀河紀子である。法名は宝蓮華院という。万延元年(1860)八月、和宮降嫁の議が和宮の固辞によって難航した際、孝明天皇はその前年に誕生したこの皇女を代わりとして将軍家茂へ降嫁させることを決意し、幕府と交渉することになった。しかし、何分にも幼少であるため成立せず、宮も翌文久元年(1861)五月、わずか三歳で薨じた。

 

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