(酒門共有墓地 つづき)
醒吉小山田君招魂碑
小山田醒吉は、天狗党にも参加し、諸生党征伐に貢献した人物である。
小宮山楓軒墓碣銘開序
小宮山楓軒は、明和元年(1764)の生まれ。立原翠軒に学び、天明三年(1783)二十歳で彰考館に勤務して「大日本史」編纂を輔佐した。寛政十一年(1799)には紅葉組扱奉行に任命されて紅葉村役所(現・鉾田市)で民政にも取り組み、大きな成果を上げた。文政三年(1820)郡奉行を解任され水戸に戻る際、離任を見送る人で沿道が埋め尽くされ、悲嘆号泣が続いたといわれる。藩主斉昭のもとで町奉行、側用人として仕えたが、急激な改革には慎重であった。天保十一年(1840)七十七歳にて死去。
贈従五位金次郎萩谷君墓表
萩谷金次郎は、尊攘派水戸藩士。元治甲子の乱で、松平頼徳を助けて水戸城に向かい、那珂湊で交戦した。そのまま、天狗党に合流して敦賀まで西上したが、そこで処刑された。三十七歳だったという。
平太郎吉田君墓
吉田平太郎活堂の墓は、先の大震災の影響だろうか、仰向けに転倒していた。
吉田活堂は、水戸の国学者。寛政三年(1791)に生まれ、藤田幽谷に学んだ。文政四年(1821)から天保二年(1831)、四十一歳のときまで江戸にあって、江戸の国学者らと交友があった。水戸では史館や弘道館で著述、歌学指導にあたった。妻は藤田幽谷の妹で、東湖は義弟となる。佐久良東雄や伴信友、大久保要らと交友があり、平田篤胤とも面識があったとされる。弘化元年(1844)脳卒中にて死去。
故金六郎大森君墓
墓地巡りの楽しみは、歴史上の人物との邂逅もあるが、同時に思わぬ人物との遭遇もある。この日、特に目当てなく酒門共有墓地を歩いていて、偶然大森金六郎の墓に出会った。
大森金六郎は、会津戦争で戦死した大森弥三左衛門の弟で、馬廻組。弘道館における戦闘に敗れた市川勢は、明治元年(1868)十月三日、霞ヶ浦を船で渡り、銚子へ上陸した。銚子は、高崎藩の飛び領地で、陣屋があった。ここで高崎藩と市川勢は戦闘となり、銃撃を受けた大森金六郎が戦死した。「市川勢の軌跡」(茨城新聞社)によれば、大森金六郎の墓は銚子市松岸の良福寺に在ると記載されている。実は以前良福寺の墓地で探したが、発見できなかった。良福寺には再挑戦するつもりであるが、ひょっとすると酒門共有墓地の墓が本墓なのかもしれない。
醒吉小山田君招魂碑
小山田醒吉は、天狗党にも参加し、諸生党征伐に貢献した人物である。
小宮山楓軒墓碣銘開序
小宮山楓軒は、明和元年(1764)の生まれ。立原翠軒に学び、天明三年(1783)二十歳で彰考館に勤務して「大日本史」編纂を輔佐した。寛政十一年(1799)には紅葉組扱奉行に任命されて紅葉村役所(現・鉾田市)で民政にも取り組み、大きな成果を上げた。文政三年(1820)郡奉行を解任され水戸に戻る際、離任を見送る人で沿道が埋め尽くされ、悲嘆号泣が続いたといわれる。藩主斉昭のもとで町奉行、側用人として仕えたが、急激な改革には慎重であった。天保十一年(1840)七十七歳にて死去。
贈従五位金次郎萩谷君墓表
萩谷金次郎は、尊攘派水戸藩士。元治甲子の乱で、松平頼徳を助けて水戸城に向かい、那珂湊で交戦した。そのまま、天狗党に合流して敦賀まで西上したが、そこで処刑された。三十七歳だったという。
平太郎吉田君墓
吉田平太郎活堂の墓は、先の大震災の影響だろうか、仰向けに転倒していた。
吉田活堂は、水戸の国学者。寛政三年(1791)に生まれ、藤田幽谷に学んだ。文政四年(1821)から天保二年(1831)、四十一歳のときまで江戸にあって、江戸の国学者らと交友があった。水戸では史館や弘道館で著述、歌学指導にあたった。妻は藤田幽谷の妹で、東湖は義弟となる。佐久良東雄や伴信友、大久保要らと交友があり、平田篤胤とも面識があったとされる。弘化元年(1844)脳卒中にて死去。
故金六郎大森君墓
墓地巡りの楽しみは、歴史上の人物との邂逅もあるが、同時に思わぬ人物との遭遇もある。この日、特に目当てなく酒門共有墓地を歩いていて、偶然大森金六郎の墓に出会った。
大森金六郎は、会津戦争で戦死した大森弥三左衛門の弟で、馬廻組。弘道館における戦闘に敗れた市川勢は、明治元年(1868)十月三日、霞ヶ浦を船で渡り、銚子へ上陸した。銚子は、高崎藩の飛び領地で、陣屋があった。ここで高崎藩と市川勢は戦闘となり、銃撃を受けた大森金六郎が戦死した。「市川勢の軌跡」(茨城新聞社)によれば、大森金六郎の墓は銚子市松岸の良福寺に在ると記載されている。実は以前良福寺の墓地で探したが、発見できなかった。良福寺には再挑戦するつもりであるが、ひょっとすると酒門共有墓地の墓が本墓なのかもしれない。
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