(浄福寺つづき)
父の卒寿のお祝いが京都で開かれた。散会後、歩いて浄福寺を訪ねた。浄福寺には、公家の墓が多数ある。無茶苦茶暑い日だったが、体力の続く限り、墓地を歩き尽くした。
従四位上侍従菅原夏長朝臣之墓
(東坊城夏長の墓)
東坊長(ひがしぼうじょう)夏長は天保七年(1836)の生まれ。東坊城聡長の二男。弘化二年(1845)十二月、元服、昇殿を許され、文章得業生に補された。安政元年(1854)八月、大内記に、同年十二月、少納言に任じられ、安政二年(1855)正月、従四位上の叙された。安政五年(1858)三月、幕府が日米通商条約の勅許を奏請した際、関白九条尚忠が叡慮に反して外交措置幕府委任の沙汰を授けようとしたのに反対し、中山忠能以下有志公家八十八卿の一員に加わって列参し、勅答案の改刪を要請した。安政六年(1859)十月、年二十四にて没。
正二位前権大納言菅原聰長卿之墓
(東坊城聡長の墓)
東坊城聡長(ときなが)は寛政十一年(1799)の生まれ。父は正二位五条為徳。文化二年(1805)、七歳のとき東坊城尚長の養子となり、文化四年(1807)十一月、元服して昇殿を許され、文章得業生に補され、文化五年(1808)十一月、従五位下に叙され、東宮学士に任じられ、文化十二年(1815)九月、侍従となり、文章博士を兼ねた。以後累進して、文政五年(1822)十二月、従三位に昇叙し、嘉永四年(1854)七月、権大納言(同年十二月辞す)に、位も従二位に進んだ。その間、仁孝・孝明両天皇の講筵に侍し、また学習院の創設にあずかり、弘化二年(1845)十月、学頭兼奉行となった。同十月、議奏に補され、安政元年(1854)六月、武家伝奏に転じ、安政四年(1857)五月、正二位に進んだ。安政五年(1858)二月、老中堀田正睦が上京して条約勅許を奏請すると、勅錠の伝達その他公武の間に立って斡旋活動した。しかし、事前に勅許の黙約を与えるなど、幕府に諂諛した行為があったため非難をあびるに至り、同年三月、伝奏を罷め、翌年四月には永蟄居に処された。文久元年(1861)十一月、死に際してようやくこれを免じられた。年六十三。
正三位清岡長煕卿之墓
清岡長煕(ながてる)は、文化十一年(1814)の生まれ。父は清岡長材。天保九年(1838)十二月、少納言に任じられ、天保十一年(1840)正月、侍従、天保十三年(1842)六月、文章博士を兼ねた。嘉永五年(1852)十一月、正三位に叙され、安政元年(1854)十月、式部権大輔となった。安政五年(1858)三月、幕府の条約勅許奏請に対する勅裁案に関し、廷臣八十八卿列参上書してその変改を請うた際、それに名を連ねて、また元治元年(1864)六月、一条家門流の三十八卿連署して横浜鎖港を請うた際もそれに加わった。同年正月より学習院学頭となり、慶応四年(1868)五月、天皇の御復読御講釈として出仕した。なお孝明天皇崩御に際し、その諡号勘進のことにあたった。明治六年(1873)、年六十にて没。
正二位前権大納言藤原朝臣隆光卿墓
(柳原隆光の墓)
柳原隆光は、寛政五年(1793)の生まれ。父は柳原均光。文化二年(1805)十二月、元服、昇殿を許され、文化八年(1811)十二月、侍従となり。文化十四年(1817)十一月、右少弁に任じられた。文政二年(1819)八月、蔵人となり、累進して文政十年(1827)六月、蔵人頭に補せられ、天保二年(1831)十二月、参議、左大弁に任じられた。その間、氏院別当、加茂下上社奉行、御祈奉行、神宮弁、皇太后宮亮を、後に右衛門督、検非違使別当等を歴任。天保十一年(1840)正月、正二位に叙され、嘉永元年(1848)二月、権大納言に任じられた。嘉永四年(1851)、年五十九で没。
ご無沙汰しております。
自分も何度か浄福寺に調査に来ていますが、噂のK子爵家は大正時代のその事件の後に浄福寺を離檀し、現在は谷中霊園の渋沢栄一の近くにお墓があります。
浄福寺のK家の墓はあると思うのですが、、立派な新墓石です。御子孫もその後も京都在住ですしK家は殿掌を拝命し明治以降も京都在住だったようです。