史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

下妻

2009年07月11日 | 茨城県
(大宝八幡神社)


大宝八幡神社

 下妻市北郊の大宝八幡神社は、大宝年間(701~)に起源を遡るという古い歴史を持つ神社である。室町時代には、下妻城主多賀谷氏の庇護を受けて隆盛を誇った。
 元治元年(1864)七月九日早朝、多宝院に本営を置く、追討軍を潰走させた天狗勢は、大宝八幡神社で奇襲成功を感謝するため社殿に拝礼して勝鬨をあげた。

(多宝院)


多宝院

 元治元年(1864)七月、筑波山にたてこもる天狗勢を追討するため、軍監氷見貞之丞と小出順之助指揮する幕府軍と水戸藩門閥派市川三左衛門率いる水戸藩軍は下妻に入り、多宝院、新福寺、光岸寺、林翁寺、圓福寺、光明寺、観音寺、雲充寺、専覚寺といった主だった寺院や商家を宿舎として分宿した。氷見と小出は、多宝院を本営と定め、市川ら水戸藩兵は新福寺を宿所とした。
 筑波山をおりた天狗勢と追討軍は下妻郊外で緒戦を戦ったが、火力兵力に優る追討軍が終始優勢で、天狗勢を敗走させた。
 少ない兵力で追討軍をやぶるために、天狗勢は参謀飯田軍蔵を道案内に、藤田小四郎、竹内百太郎らが各隊を率いて幕府軍本営多宝院に夜襲を仕掛けた。虚を突かれた幕府軍は、ある者は寝巻きのまま飛び出し、ある者は裸体で逃げ惑った。このとき多宝院は炎に包まれ全焼した。
 勢いをかって天狗勢は、水戸藩の宿所である新福寺を襲い、水戸藩兵を追い払った。市川三左衛門は、命からがら辛うじて逃げのびたという。

(新福寺)


新福寺

 市川三左衛門が宿所とした新福寺である。

(光明寺)
 光明寺門前には、天狗勢と幕府追討軍との間での戦闘で戦死した追討軍側三名の墓がある。


光明寺


追討軍兵士の墓

 向って右が、下妻藩士大野権次の墓。中央の墓の主である酒井玄八郎とともに、七月九日の多宝院における戦闘で戦死した。
 左の墓は、佐々木運八家来弥吉のものとある。死亡日は七月十一日となっているが、やはり同所における戦闘の犠牲者である。

(光岸寺)


光岸寺


今邨忠禮之墓

 下妻藩は、一万石という小さな藩であった。城は持たず、陣屋が置かれていた。幕末の藩主は井上正巳。戊辰戦争が起きると、井上正巳は新政府軍への加担を決めたが、一部の佐幕派藩士が会津に走ったため、新政府からそのことを咎められ改易の危機に瀕した。そこで佐幕派の家老、今村昇らを殺害し難を逃れた。
 光岸寺には、殺害された今村昇(忠礼)の墓がある。

(雲充寺)


雲充寺

 天狗勢の一隊、三橋金六の率いる兵四百が下妻に入ったときには、多宝院も焼けおち追討軍も逃げ去ったあとであった。三橋は、高崎藩兵がのこる雲充寺に攻め入った。高崎藩兵は抵抗らしい抵抗も見せず敗走した。

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