史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日暮里 ⅢⅩⅢ

2022年04月23日 | 東京都

(谷中霊園つづき)

 

島村俊明之墓

 

 島村俊明(しゅんめい)は、安政二年(1855)の生まれ。家は代々宮彫師。幼少から才能を認められ、明治五年(1872)、父の死により、二男でありながら十八歳で家を継いだ。既に十六歳のとき、父の高弟小野寺俊泰の後見で、両国回向院の欄間に十六羅漢を彫刻して全都の評判となった。明治十四年(1881)、第二回勧業博覧会に牙彫遊女を出品し、妙技二等賞を得た。明治二十九年(1896)、年四十二で没。【甲新16号29側】

 

竹内綱之墓

 

 竹内綱は、天保十年(1839)の生まれ。板垣退助を助けて自由党を創立。衆議院議長などを歴任。京釜鉄道の専務として活躍した。吉田茂は竹内綱の五男。【甲8号13側】

 

「寂」(鄭永寧の墓)

 

 鄭永寧は、文政十二年(1829)、長崎の唐通詞の家に生まれた。嘉永元年(1848)、無給稽古通事となり、万延元年(1860)、小通事過人に進み、華語を実兄泰蔵に、英語を養父に学んだ。明治二年(1869)、外務省に入り、大訳官となり、明治三年(1870)、李鴻章、會国藩に会見して条約締結を打診し、明治四年(1871)八月、伊達宗城、柳原前光に随行して、日清修好条規通商章程を締結、翌年上海領事代理、明治七年(1874)、一等書記官、さらに権大書記官に進んだが、明治十四年(1881)、外交上の見解の相違から司法省に移り、大清会典の訓点を付して法典編纂の資料とした。明治十八年(1885)、外務省に復し、伊藤博文の天津会談に随行した。明治三十年(1897)、年六十九で没。【乙4号12側】

 

陽家之墓(陽其二の墓)

 

 陽其二(そのじ)は、天保九年(1838)、長崎の唐通詞の家に生まれた。安政二年(1855)、小通事末席となり、安政六年(1859)、長崎開港に伴い港会所(のちの税関)に勤務。文久二年(1862)、幕府海軍に属し、長崎丸汽鑵方、本木昇造の配下となり、慶応元年(1865)、長崎製鉄所に転じ、活版製造に従事した。明治三年(1870)、昌造の推薦で神奈川県に招かれ、横浜毎日新聞発刊に尽力した。明治五年(1872)、横浜に印刷所景諦社を創立(明治七年(1874)、王子製紙と合併し製紙分社と改称)、昌造、平野富二を助けて築地活版所設立に貢献し、のち相談役となり、また我が国菎蒻版の製造に貢献した。明治三十九年(1906)、年六十九で没。墓石側面にある法名「大有院殴陽靖洲居士」が其二のものと思われる。【乙2号11側】

 

西村郡司招魂碑

 

 西村郡司は文化十一年(1814)の生まれ。初め江戸深川で商業を営み、安政六年(1859)、神奈川開港の直後、同地に赴き貿易に従事し、渋澤栄一らと交わった。奥羽征討の師起こるや、軍資金として一万両を献じ、五口俸を給され称氏帯刀を許された。維新後、明治政府は東京府の流民救済のため、下総の旧幕府の牧野(佐倉七牧)を開放し、明治二年(1869)四月、窮民を募って帰農させた。この時、郡司は三井八郎右衛門らとともに会社の頭取にあげられた。郡司は翌三年(1870)、現八街市の北半を占める旧柳沢牧の開墾に当たる。明治五年(1872)五月、会社は解散したが、郡司は以来現地に住み地主として開墾を続けた。無住の原野が今日、人口六万余の八街市となるに至った街づくりの功労者である。明治二十八年(1895)、年八十二で没。【甲8号13側】

 

(長久院)

 長久院門前には塩田三郎の巨大な顕彰碑が建っていて、墓地には塩田三郎の墓がある(台東区谷中6‐2‐16)。

 

長久院

 

特命全権公使正三位勲二等鹽田君墓

(塩田三郎の墓)

 

特命全權公使正三位君弐等塩田君碑

 

 塩田三郎は、天保十四年(1843)の生まれ。父は幕府医師順菴といい、代々医師として幕府に仕える家であった。安政三年(1856)、父に従って箱館に行き、漢学を栗本鋤雲に、英学を名村五八郎に、仏学を仏人某に受け、文久三年(1863)、帰府して通弁御用となった。この頃、兄宗寂の病死により嗣子となった。同年末、外国奉行池田長発を正使とする横浜鎖港談判使節に通弁御用出役(調役格)として一行に加わり、仏国に赴いて翌元治元年(1864)、帰国した。ついで慶應元年(1865)、外国奉行柴田剛中に従って英仏二国に赴き、慶応三年(1867)には外国奉行支配組頭に進んだ。幕府瓦解後、一時横浜に移住して仏学を教授したが、明治三年(1870)、民部省、ついで外務省に出仕し、外務権大記として鮫島少弁務官に従って英仏普三国に赴き、明治四年(1871)、特例弁務使として伊国の万国電信会議に出席した。同年、外務大記として岩倉特命全権大使の米欧回覧に随行し、明治六年(1873)、外務大丞に任じられ、明治八年(1875)には露国における電信会議に出席した。その後、外務大書記官、外務少輔を歴任し、明治十四年(1881)、井上外務卿の下で各国使臣と条約改正について折衝した。明治十八年(1885)、特命全権公使として清国に駐箚したが、明治二十二年(1889)北京で客死した。年四十七。

 

(本通寺)

 本通寺の墓地の奥の方に儒者、国学者日尾荊山の墓がある(台東区谷中4‐2‐33)。

 

本通寺

 

荊山日尾先生墓

 

 日尾荊山(けいざん)は、寛政元年(1789)の生まれ。父は町医者日尾林庵。学は和漢を兼ね、また筆蹟もよくした。漢学は亀田鵬斎の門人で、私学は清水浜臣の門人。資性耿介にして左手に觴(さかずき)を把み、右手に巻を披いて(ひらいて)、「天下の至楽なり」とし、その窮乏を顧みなかった。荊山の旧蔵書は多く東京静嘉堂文庫に収められていたが、当時の三才女の一人と称された後妻の邦子は、また筆道の弟子でもあったため、その夫君の文字と酷似し、判別に苦しむものもある。「堤中納言物語」「落窪物語」の荊山本は、現在も国文学者の注意を引いている。安政六年(1859)、年七十一で没。同じ墓所に娘で教育者として知られる日尾直子の墓もある。

 

(龍泉寺)

 

龍泉寺

 

 龍泉寺の墓地の一番奥に辻守静の墓がある(台東区谷中5‐9‐9‐26)。

 

三枝守静墳墓

(辻守静の墓)

 

 辻守静(しゅせい)は、幕臣、歌人。嘉永三年(1850)三月、甲府勤番大草能登守支配より浦賀奉行支配組頭を勤め、安政元年(1854)、林奉行となった。国学を能くし、和歌を大石千引に学び、のち海野遊翁の門人となった。また仏学を荻野梅塢(ばいう)に学び、書を中村仏庵に学んでこれを能くした。明治六年(1873)、没。墓石には父三枝氏の姓が刻まれている。

 

(善性寺つづき)

 

梔園小出粲墓

 

 小出粲(つばら)は、天保四年(1833)の生まれ。父は浜田藩主松田三郎兵衛。雅号は梔園、如雲、三小庵など。幼時荒木寛快に絵画を学んだが、三年ほどで止め、藩学官諭社に入った。武芸を好み、特に槍術は宝蔵院流の皆伝を受けた。十六、七歳から歌道を志し、のちに島原藩の瀬戸久敬に学んだ。二十歳のとき小出修吉の養子となり、大小姓から近習に進んだ。慶應二年(1866)、幕府の長州再征の際、浜田藩は落城し、粲は藩主松平武聡を守護して居を松江、京都、美作と移した。明治八年(1975)、太政官十三等出仕。明治十年(1877)、宮内省に入り文学御用掛。明治十七年(1884)、京都へ転勤。明治二十年(1887)、東京に戻り、明治二十一年(1888)、御歌所勤務となり、小石川水道端に住んだ。明治二十四年(1891)、吉野、京都行幸に供奉した。明治二十五年(1892)、御歌所寄人を仰せ付けられ、明治三十三年(1900)、御歌所主事心得を命じられたが、明治三十五年(1902)、辞して閉居した。旅中日記「麻衣」などがある。明治四十一年(1908)、年七十六で没。

 

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