(海徳寺)
花粉症の季節に入り、空気を吸うのも苦痛な日々である。しかし、この日は久しぶりに快晴という天気予報であった。せっかくの週末を室内でぐずぐず過ごすのはもったいない。嫁さんに確認すると、夕方外出するがそれまでなら自動車を使ってもよいという許可を得たので、早朝四時に起きてひたすら北茨城を目指した。この日の第一目的地は、海徳寺である。前回、探しきれなかった戊辰殉難者の墓に再チャレンジする。
前回、どうして見付けられなかったのか不思議なほどあっさり二基の墓に出会うことができた。
藝州竹信源助墓
芸州藩竹信源助は、卒。賀茂郡下三永村の人。慶応四年(1868)七月二十八日(墓石によれば二十二日)、常陸平潟港にて病死。
高田伊三郎墓
高田伊三郎は柳河藩。慶応四年(1868)六月(墓石によれば二十八日)、磐城新田坂にて戦死。
花粉症の季節に入り、空気を吸うのも苦痛な日々である。しかし、この日は久しぶりに快晴という天気予報であった。せっかくの週末を室内でぐずぐず過ごすのはもったいない。嫁さんに確認すると、夕方外出するがそれまでなら自動車を使ってもよいという許可を得たので、早朝四時に起きてひたすら北茨城を目指した。この日の第一目的地は、海徳寺である。前回、探しきれなかった戊辰殉難者の墓に再チャレンジする。
前回、どうして見付けられなかったのか不思議なほどあっさり二基の墓に出会うことができた。
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藝州竹信源助墓
芸州藩竹信源助は、卒。賀茂郡下三永村の人。慶応四年(1868)七月二十八日(墓石によれば二十二日)、常陸平潟港にて病死。
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高田伊三郎墓
高田伊三郎は柳河藩。慶応四年(1868)六月(墓石によれば二十八日)、磐城新田坂にて戦死。
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