史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

本駒込 Ⅷ

2022年04月23日 | 東京都

(大林寺つづき)

 

橋本直香之墓

 

 橋本直香(なおか)は、文化四年(1807)、代々飛脚問屋島屋を営む家に生まれた。直香の時代には機屋を営んだが、家業不振、そのため江戸に出た。橘守部に入門。のち一派を興して赤坂弁天山に卜居。門弟を育成し、赤坂氷川神社畔に移って以来栄えた。門人は旗本、御家人から庶民に及んだ。「万葉集」研究に努め、出京後も郷国に関心を寄せ、神保雪居、神保臥雲、大島義矩と親交を保ち、「上野歌解」はじめ業績にもそれを反映している。著書のうち刊行されたものは「上野歌解」「万葉集私抄」のみ。明治二十二年(1889)、年八十三にて没。

 

(蓮光寺つづき)

 

元老院議官陸軍少将正三位勲一等

男爵井田譲墓

 

 井田譲は天保九年(1838)、大垣藩士の子に生まれた。藩主戸田氏彬の侍読、西洋流砲術教授方を勤め、文久三年(1863)、京都禁裏守護士となり、長州征伐に従軍してのち、幕政の奉還を主張した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いには藩老小原鉄心の股肱として活躍し、同年六月、新政府に仕えて軍務官権判事となり、明治二年(1869)、会計官権判事に転じた。同年六月、但馬生野の人民騒擾鎮撫に出張、八月には生野県権知事となり、明治三年(1870)には生野県知事に進んだ。ついで久美浜県知事、長崎県知事、大蔵大丞を経て、明治四年(1871)、陸軍少将に任じられ、鎮西鎮台出張を命じられた。のち清国福州領事、上海総領事となり、明治七年(1874)、再び陸軍少将に任じられた。広島鎮台司令長官、陸軍省第一局長を経て、西南戦争では陸軍卿代理を務めた。明治十三年(1880)以降は、特命全権公使となり、欧州各国に駐在した。帰朝後、元老院議官、陸軍大学校長などを歴任した。明治二十二年(1889)、年五十二で没。

 「明治維新人名辞典」では井田譲の墓は、「伝通院」となっていたが、どういうわけだか、蓮光寺の本堂前にあったので、伝通院を探す手間が省けた。

 

青山景通之墓

 

 廃仏毀釈が全国でも頭抜けて熱狂的に行われた地域として、薩摩藩と並んで美濃苗木藩が挙げられる。維新直後の藩政を握っていたのが、青山直通である。直通は、父景通の影響を受けて平田国学に心酔していた。景通は、平田篤胤の没後門人で、維新後新政府に取り立てられ、神祇官権判事に就いた。その関わりから苗木藩では、幕末から平田国学が流行し、明治三年(1870)春には、藩主以下、藩の上層部が挙って入門したため、神道一色となった。青山直通の主導で藩内の廃仏毀釈の動きが本格化したといわれる。

 

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