史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水道橋 Ⅲ

2014年07月19日 | 東京都
(伝通院)


処静院跡

 平成二十六年(2014)三月、伝通院の前(厳密にいうと、山門から二百メートルほど西側)に、文京区教育委員会により「浪士組結成の地 処静院跡」と記した説明板が建てられた。処静院は、伝通院塔頭の一つで、正確な位置はこの場所よりさらに西側である。山岡鉄舟と懇意であった処静院住職琳瑞が、結成の主旨に賛同し、本院を提供したといわれる。

 杉浦重剛は、滋賀県大津市膳所の出身。幼名は謙次郎、号は梅窓、天台道士といった。明治三年(1870)、東京大学南校に入学し、明治九年(1876)イギリスに留学した。明治十八年(1885)、東京英語学校(のちの日本学園)開設に関与した。後年、国外院学監、皇典講究所幹事長、東亜同文書院長などを務め、大正三年(1914)には東宮御学問所御用掛となる。明治・大正期の教育家、評論家として重きを成した。大正十三年(1924)死去。


杉浦重剛之墓


祥道琳瑞大和上(細谷琳瑞の墓)

今回の伝通院訪問の主目的は、細谷琳瑞の墓を訪ねることにあった。琳瑞の墓は、伝通院歴代住職の墓の近くにあり、暮石には「祥道琳瑞大和上」と刻まれている。
 琳瑞は安政四年(1857)に処静院の住職となった。水戸の徳川斉昭、藤田東湖と国事を論じ、尊攘派の指導的立場にあったと目されていたが、一方で井伊大老に対し、公武合体を勧告するという中道穏健派であった。文久三年(1863)、暗殺された清河八郎の首級を隠し持っていた山岡鉄舟から依頼され、伝通院に葬り、墓碑を建立した。高橋泥舟とも交流があり、慶応三年(1867)十月十八日、泥舟宅からの帰途、小石川三百間坂にて刺客に襲われ死亡した。三十八歳。

(真珠院)


真珠院


愿恭院殿勇蓮社(水野忠誠の墓)

 伝通院の西に真珠院がある。戦前まで水野家(信州松本藩主、のちに沼津藩主)の歴代藩主およびその関係者の墓五十五基がある墓域があったが、関東大震災さらに戦災によって荒廃するに任せたままであった。昭和三十年(1955)、瑩域を整理した。この時、水野家歴代藩主の墓についても可能な限り復元再建したという。平成十六年(2004)五月、水野家歴代瑩域が新たに完成し、現在の姿となった。
 水野家第十四代水野忠誠(ただのぶ)は、文久二年(1862)に家督を相続し、イギリス公使館東禅寺の警備を担任されるなど重用された。慶応二年(1866)には長州再征のため将軍供奉を命じられた。同年七月には老中に任じられ、再征軍の先鋒総督に従って広島に出陣したが、将軍家茂死去に伴う撤兵作業中に病に罹り九月急死した。三十三歳。

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