史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊勢

2022年06月18日 | 三重県

 小学校の修学旅行以来の伊勢である。実に五十年振りの訪問となった。伊勢市駅前の手荷物預り所でレンタサイクルを貸し出している。限られた時間で目的地を走破することを考えて、電動自転車を選んだ。今北山墓地では、急な坂を昇ることになったので、電動自転車を選んで正解であった。天気も良く快適なサイクリングであった。

 

(大豐和紙工業㈱)

 

神宮御用紙製造場

 

御師龍太夫宅跡

 

 明治天皇が初めて伊勢神宮(外宮・内宮)を参拝し、王政復古を報告し、国運の発展を祈願したのが明治二年(1869)三月のことであった。三月九日、鈴鹿峠を越えて三重県域に入った天皇は、窪田を経て津へ進み、伊勢街道に入ると、松坂行在所に到着した。三月十一日、斎宮・小俣。宮川を経て伊勢に入った。

 現・大豐(おおとよ)和紙工業株式会社の敷地は、江戸時代、伊勢神宮の参詣者を神宮に案内し、宿泊などの世話をする「御師」の龍太夫宅であった。明治天皇が当地に滞在したのは、明治十三年(1880)七月七日から九日までの二泊であった。

 

伊勢和紙館

 

 龍太夫の宅跡地を引き継いだ大豐和紙工業は、神宮大麻の御用紙を奉製するとともに、「伊勢和紙館」や「伊勢和紙ギャラリー」を設け、和紙文化の保存と継承に努めている。

 

明治天皇行在所遺址

 

明治天皇宇治山田行在所跡

 

明治天皇御料 龍の井碑

 

 左は創立二十年、工場拡張記念碑。

 

(二軒茶屋餅角屋本店)

 

二軒茶屋餅 角屋本店

 

 江戸時代、関東からの参宮道者(どうしゃ)は、伊勢街道を通り、関西からの道者は、伊勢本街道を通って参宮した。一方、志摩、尾張、三河、遠江、駿河などからは船で参宮することが多かった。船道者は、勢田川水域に入ると、太鼓や笛、鉦で囃しながら、景気よく繰り込んできて、二軒茶屋などに上陸した。

二軒茶屋というのは、角屋(かどや)とその東にあった湊屋(うどんとすし)と呼ばれる二軒の茶屋があったことに由来する。二軒茶屋餅角屋(かどや)は、天正三年(1575)の創業という老舗である。

 明治五年(1872)五月二十五日、明治天皇は当地から上陸して伊勢神宮に参拝した。そのことを記念して、大正四年(1915)に石碑が建てられた。明治天皇に供奉した中には、新政府参議西郷隆盛がいた。

 

明治天皇御上陸地記念碑

 

二軒茶屋旧船着場

 

(足代弘訓旧邸跡)

 

國學者足代弘訓之邸跡

 

 足代弘訓(あじろひろのり)は、天明四年(1784)の生まれ。足代家は世々伊勢外宮の禰宜で、幼少より荒木田久老、本居春庭、本居大平らに従学して国学を修め、ついで京都・江戸に遊学して林衝、塙保己一、上田秋成らと交わり、歌学、律令、有職故実に通じた。天保飢饉の際には、私財を投じて窮民を救った。また大阪在住時には、敬神憂国の志厚く、大塩平八郎とも親交があった。天保八年(1837)の大塩の乱の時には、当局に取り調べを受けた。晩年、外交問題を憂えて志士と交わり、門人に尊王憂国の思想を説いた。門下からは、松浦武四郎、佐々木弘綱、世古延世、御巫清直らを輩出した。本居系国学者の中でも独自の地位を占めている。

 

(国学者足代弘訓翁墳墓地)

 

國學者足代弘訓翁墳墓地

 

正四位上度会弘訓神主墓(足代弘訓の墓)

 

 足代弘訓が亡くなったのは、安政三年(1856)のことであった。年七十三。

 足代家の墓所は、伊勢市駅のすぐ北側にある。周囲は住宅地や駐車場となっているので、何だか取り残されたような空間である。施錠されているため中には入ることはできないが、塀越しに写真を撮ることは可能である。

 弘訓の墓石には、本姓である「度会(わたらい)」が刻まれている。

 

(神宮道場)

 

神宮道場

 

 神宮道場(旧・神宮司庁)には、明治三十八年(1905)十一月十五日から十七日の二泊、明治天皇が滞在している。

 内宮城内に現在の神宮司庁舎が設けられると、行在所となった旧庁舎は、神職の養成ならびに研修を行う神宮道場となった。

 神宮道場は、伊勢神宮内宮に通じる「おはらい町通り」沿いにある。ここまで来れば、伊勢神宮は目の前である。五十年振りの参詣に心が動いたが、今回は伊勢神宮より今北山墓地を優先して、ここで折り返した。伊勢神宮参拝は次の機会にとっておくこととする。

 

(今北山墓地)

 今北山墓地の入口が見つからず、付近を走り回ることになった。結局、墓地西側の住宅街の急な坂を上って、墓地の一番高いところから入った。あとから分かったことであるが、墓地の南東に入口があり、そこからであれば普通にアクセスすることができる。お陰で頭からバケツをかぶったように汗びっしょりになってしまった。

 墓地入口を上ったところに浦田長民の顕彰碑が建てられている。

 

浦田長民君碑

 

 浦田長民は天保十一年(1840)の生まれ。鷹羽龍年、斎藤拙堂に詩を学び、尊王を志し、安政四年(1857)、内宮権禰宜、清酒作大内人となった。二十歳にして宇治年寄を兼ねた。文久年間、尊王攘夷論がさかんとなり、江戸、京に出て志士と交わり、三条実美らと通じ、水戸、肥前、肥後などの浪人をかくまい、文久三年(1863)の天誅組に気脈を通じ、翌元治元年(1864)八月、幕府の怒りに触れ山田奉行に捕らえられ禁固された。慶應三年(1867)八月、赦され。明治元年(1868)には度会府御用掛、神祇並学校曹長、市政曹長、翌明治二年(1869)九月、度会県少参事となり、のち神宮大丞、神宮少宮司などになり「明治祭式」を著わし、神嘗祭の儀式などを定めた。のち東京府および宮内省御用掛、控訴裁判所判事、度会郡長、さらに鈴鹿・奄芸・河曲などの郡長となった。明治二十六年(1893)年五十四にて没。

 

浦田長民墓

 

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