史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

行方

2015年01月11日 | 茨城県
(橋門)
 平成二十六年(2014)は、元治元年(1864)の天狗党挙兵から百五十年というメモリアル・イヤーである。しかし、私の身の周りではそのことで騒いでいる人はひとりもおらず、何ごともなく一年が終わろうとしている。かくいう私も茨城県に足を運んだのは今年一回だけである。せめて年内にもう一度茨城県の史跡を巡りたいと、密かに計画を練っていた。この週末、すっきりと晴れる予報だったので、計画を決行することにした。例によって、早朝四時半に自宅を出発する。七時前に行方市に到着した。
 この日は、行方、かすみがうら、石岡、茨城、大洗、水戸、常陸太田、日立、北茨城と、県内全域を縦横に走り回る計画を立てた。副テーマは斉昭が選定した水戸八景の踏破である。既に村松晴嵐碑と水門帰帆碑はチェック済みなので、マジック6であるが、これを一気に回ってしまおうという計画である。勿論、昼食など食べているヒマはない。


天狗塚

 行方市の八坂神社(行方市橋門418)の側の忠魂碑の横に、天狗塚がある。目立たないが、元治元年(1864)の天狗党の乱で、この付近で戦死した天狗党の五名が葬られている。背面に名前が刻まれている。
 竹内哲次郎 下総小金の人。芳野金陵、千葉道三郎の門で学ぶ。元治元年(1864)八月、松平頼徳に従って水戸に入り転戦。九月七日、青沼村舟中にて戦死。二十四歳。
 神代蔵之助 茨城郡下吉影村出身。鹿島神社祠官。九月七日、麻生藩兵と戦いの末、自決。十六歳。
 水田謙次 筑後下妻郡富安村の庄屋貞行の次男。文久三年(1863)、上洛して尊攘活動。八月十三日、筑波山にて戦死。三十四歳。
 徳江雷蔵 友秀安の両名については「幕末維新全殉難者名鑑」に名前見つけられず。

(自性寺)


自性寺

 行方市内宿1634の自性寺に、守山藩家臣七人の墓がある。森に覆われた墓地に入ると、処刑された七名の墓が無言で出迎えてくれる。
 筑波勢が挙兵すると、藩内領民まで巻き込んで大混乱となった。藩としても看過できず、病気療養中の藩主慶篤の名代として、連枝宍戸藩(一万石)の藩主松平頼徳が水戸城に入ることを命じられた。これを知った守山藩主松平頼升(よりのり)は、家来のうち強壮誠忠かつ武芸に通じた者十名を選び、頼徳のもとに送り届けた。彼らは頼徳と行動をともにしたが、頼徳は幕府に騙される形で捕えられ死罪に処された。頼徳を護衛していた十名も水戸藩に呼びつけられ揚り屋(牢屋)に入れられた。十名のうち三名は脱出したが、残る七名は幕府に引き渡され、抗弁の機会もなく江戸小塚原にて処刑された。


勤王七士の墓

 林正義庸、中村則傚修之助、高橋行宜東三郎、会田俊親鐘太郎、所谷英伝英次、高橋行脩釜三郎、太田資温新太郎の七名。


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2 コメント

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太田資温新太郎子孫 (武田京子)
2019-01-27 19:25:13
先祖のこと調べています、
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太田新太郎のこと (植村)
2019-01-27 20:50:46
武田様

メールありがとうございます。
大変申し訳ありませんが、詳細は分かりません。
「幕末維新全殉難者名鑑」によると、太田新太郎資温は、磐城守山藩士。元治元年十一月二十三日、水戸にて斬。二十八歳とのことです。(水戸か江戸か、どちらで処刑されたのかも確信的なことは分かりません)
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