史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 常磐共有墓地 Ⅺ

2022年09月17日 | 茨城県

(回転神社・常磐共有墓地つづき)

 

佐々與右衛門成徳墓

 

 佐々(さつさ)与衛門は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永六年(1853)床几廻に選ばれ、安政元年(1854)、命により江戸に出て外夷の変に備えた。砲技を能くし、しばしば賞された。安政五年(1858)、小十人組に補され、同年家督を継ぎ、馬廻組に移った。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金に屯集し、八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、砲隊を指揮して城兵、幕兵と転戦した。同年十月、降伏して古河に禁固され、慶応元年(1865)、囚中に没した。年四十一。

 

林忠左衛門以徳墓

 

 林忠左衛門は天保十一年(1840)の生まれ。安政四年(1857)、床几廻に選ばれ、のち馬廻組となる。安政五年(1858)の藩難、ついで安政六年(1859)の勅書返納阻止に奔走した。万延元年(1860)二月、金子孫二郎らが評定所に召喚されたことを聞き、これを奪わんとして藩兵と消魂橋に戦って負傷し、ために大老井伊直弼邀撃に加わることができなかった。同年八月、薩摩藩邸に三十七人とともに投じ、攘夷の先陣たらんとした。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳を護衛して那珂湊に拠り、少年隊を指揮して城兵と戦い、神勢館の砲戦にて負傷して十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、久留里藩に禁固中、慶応元年(1865)正月、病死した。年二十六。

 

武石権三郎重方墓

 

 武石権三郎は、文政三年(1820)の生まれ。弘化四年(1847)、進仕して歩行士に列し、与力となった。万延元年(1860)、格式小十人組の次に班した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため小金に屯集。八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、各地で城兵と交戦し、十月二十三日、降伏して忍藩に禁固され、慶応二年(1866)六月、囚中に病死した。年四十七。

 

平方金五郎忠善墓

 

 平方金五郎は、天保五年(1834)の生まれ。嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政年中両度武芸出精により賞された。文久三年(1863)二月、歩行目付となった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、城兵ならびに幕兵と交戦し、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、慶応三年(1867)十月、久留里藩に禁固中、病死した。年三十四。

 

天埜虎次郎格墓

 

 天野虎次郎は、天保十三年(1842)の生まれ。元治甲子の乱で榊原新左衛門に属して那珂湊に拠り、城兵と転戦して元治元年(1864)十月二十三日、榊原が自首するに際してこれに随い、忍藩に禁固されて慶應三年(1867)正月、囚中に病死した。年二十六。

 

田尻新介和好墓

 

 田尻新介は文政二年(1819)の生まれ。年少の頃より会沢正志斎に学び、天保末横目役に任じられ里正を兼ねた。弘化の変に、出府して藩主の無実を老中牧野忠雅邸に訴えて発覚し、獄に繋がれた。藩政回復するに及んで赦され、安政初め横目役に復して郷士に列した。同六年の難に南上して意見を開陳し、勅書返納の議が起こると憤激して大老井伊直弼襲撃を唱えた。元治元年(1864)春、選ばれて郡方勤となって徒士に列し、潮来郷校の取締を命じられ、動乱には那珂湊に拠って城兵と戦った。のち降伏して岩槻村に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年四十七。

 

床井荘三親徳墓

 

 床井(とこい)荘三は、天保九年(1838)の生まれ。藩校に学んで俊秀の聞こえが高かった。茅根伊予之介、原市之進につき塾生を教授した。安政三年(1856)、史館雇となり、歩士に転じ、小十人組に班した。文久三年(1863)、藩主に随従して上京した。元治の役には、武田耕雲斎に属して各所を転戦したが、十月、榊原新左衛門らの自首に従い、忍藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年二十八。

 

宮本辰之介信守墓

 

 宮本辰之介は、天保三年(1832)の生まれ。安政元年(1854)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで小十人組に班し、普請奉行を経て小十人目付となった。文久二年(1862)、勅使大原重徳の東下に際し、下野遠明と間行して出府し、重徳に接して上書建言するところがあった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、藩邸に入り、八月、目付代松平頼徳に随従して那珂湊に入り、城兵と交戦して十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され翌年四月、死罪に処された。年三十四。

 

大胡聿蔵資敬墓

 

 大胡聿蔵は、文政五年(1822)生まれ。天保十三年(1842)、文武出精により賞され、弘化の藩難に奔走して処罰された。嘉永二年(1849)、免じられたが、嘉永六年(1853)、床几廻に選ばれ、安政四年(1857)、家督を継いで小十人組に班した。安政五年(1858)、勅書伝達をはかり住谷寅之介と西海南海道に遊説し、このとき立川で坂本龍馬と会見している。安政六年(1859)二月帰藩。同年八月、高橋多一郎らと出府し、薩摩藩士高崎五六らと会合し除奸計画に加わった。文久二年(1862)冬、一橋慶喜の上京に随従した。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため下総小金に屯集し、七月、松平頼徳に従って那珂湊に拠り、諸生隊を率いて城兵並びに幕兵と交戦。同年十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、自刃に処された。年四十四。

 

林了蔵正竜墓

 

 林了蔵は、文政十二年(1829)の生まれ。安政三年(1856)、弘道館舎長に挙げられ、安政四年(1857)、訓導となった。万延元年(1860)、奥右筆に転じ、文久元年(1861)、馬廻組を経て奥右筆に復した。元治元年(1864)六月、市川三左衛門らの執政就任に反対し、江戸に向かうため下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳に随従して下向、那珂湊に拠って城兵と戦い、十月二十三日に至って榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶應元年(1865)四月、死罪に処された。年三十七。

 

三浦平太郎忠武墓

 

 三浦平太郎は文化三年(1806)の生まれ。通称は初め平太郎、のちに贇男(よしお)。文化十年(1813)、家督を継ぎ、天保十二年(1841)、町奉行に挙げられた。弘化の藩難に際し、藩主徳川斉昭の雪冤に奔走したが、幕忌にふれて免職閉居に処された。安政の初め、小姓頭取となり、君側にあること前後三十年に及んだ。文久二年(1862)八月十七日の斉昭三回忌に幕府代新見正興を迎え、城付代を命じられた。文久三年(1863)、用人に進み、同年九月本丸御城付となった。元治元年(1864)八月、反対派のために職を免じられ、慶応元年(1865)十月二十四日、元家老杉浦政安(羔二郎)らと獄に投じられ、翌日死罪に処された。年六十。

 

原熊之介忠愛墓

 

 原熊之介は、文政八年(1825)の生まれ。天保十三年(1842)、床几廻に選ばれ、弘化の難に藩主徳川斉昭の無罪を老中阿部正弘に訴えて罪を得、幽閉された。安政四年(1857)、吟味役となり、文久三年(1863)、藩主慶篤に随従して上京した。同年家督を継いで勘定奉行見習となった。元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かうため、下総小金に屯集した。同年八月、松平頼徳の下国に随従。那珂湊に拠って城兵と交戦、十月二十三日、榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶應元年(1865)四月、死罪に処された。年四十一。

 

下野準次郎遠明墓

 

 下野準次郎は、文政六年(1823)の生まれ。安政三年(1856)、進仕して弘道館訓導に挙げられ、史館勤を兼ねた。安政五年(1858)八月、勅書問題が発生すると、国事に奔走し、文久元年(1861)五月、同藩の原市之進とともに宇都宮藩士大橋訥庵らと会合して安藤老中要撃を画策した。文久二年(1862)冬、一橋慶喜の上京に随従し、文久三年(1863)正月、翠紅館の会合に列席し、諸藩の同志と交わり、攘夷の気運を高めた。同年三月、軍用見習となる。元治元年(1864)の役では、松平頼徳に属して那珂湊に拠り、山國喜八郎とともに軍議に与った。同年十月二十三日、総督榊原新左衛門の自首に従い、岩槻藩に禁固され、慶応元年(1865)四月、死罪に処された。年四十三。

 

 

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