史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日立 Ⅳ

2022年01月01日 | 茨城県

(河原子台場跡)

 

河原子台場跡

 

 河原子の河原子旅館の駐車場の前に河原子台場跡説明板が建てられている(日立市河原子町2‐2‐24)。

 河原子台場は、水戸藩が建造した七つの海岸防備施設の一つ。台場には大砲が三門備えられ、海防農兵が配置されて海岸防備に当たった。

 

(河原子海水浴場)

 

河原子海水浴場

 

 河原子は海水浴場であるが、さすがに季節外れのこの時期、人影はまばらであった。前日、太平洋沖を通過した台風の影響で波は荒々しかった。海水浴というよりサーフィンに適した波だと思ったら、河原子北浜海岸は、我が国でも有数のサーフィンスポットらしく、時には大会も開かれるという。

 

烏帽子岩

 

藤田東湖七言絶句碑

 

 烏帽子岩の中腹、津神社に藤田東湖の詩碑がある。残念ながら、崩落の危険があるため烏帽子岩はフェンスで囲まれ、石碑に近寄ることはできなかった。

 嘉永六年(1853)、藤田東湖が河原子を訪れたとき。津神社社頭にて詠んだ七言絶句である。明治四十一年(1908)に門人であった香川敬三が親書し、町の有志によって建碑されたもの。

 

眼界東窮亜墨州(がんかいひがしにきわまるあぼくしゅう)

千尋絶壁是吾樓(せんじんののぜっぺきこれわがろう)

世間富貴王侯楽(せけんのふうきおうこうのたのしみ)

不換先生一日遊(かえずせんせいいちじつのあそびに)

 

(日向墓地)

 河原子小学校の北側に日向墓地が広がる。日向墓地は夕景の名所として知られる。そのほぼ真ん中に宮田家の墓地がある。

 

故中教正宮田晩翠先生之墓(宮田篤親の墓)

 

大龢先生墓碣之銘

 

 宮田篤親は、文政四年(1821)の生まれ。篤親は諱で、字は謙祥、雅号は晩翠と称した。天保九年(1838)、河原子村の修験宮田謙養の養子となり、平田銕胤、藤田東湖らについて和漢の学を修め、水戸藩の天保改革に協力した。神職となり、各地の神社の祠官を勤め、安政四年(1857)には水戸藩大久保郷校の館守となり、郷校を足場として、水戸領内神職の組織化を図って尊攘運動に活躍した。安政戊午の密勅降下前夜には、西南地方に潜行して各地の神職との連携に努め、反対派から処罰されたこともあった。水戸藩御見得格となり、扶持米を受けた。維新後は神祇官の再興に奔走した。明治二十九年(1896)、年七十六で没。

 傍らの墓碣銘碑は養父宮田謙養のものか。藤田東湖の撰文と書。

 

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