史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

西巣鴨 Ⅲ

2022年12月24日 | 東京都

(総禅寺)

 先週、宮城県東松島市赤井の大槻俊斎生誕地を訪ねたばかりである。東京にあるという墓の場所を調べたところ、巣鴨の総禅寺ということが分かったので、翌週総禅寺を訪ねた。

 総禅寺墓地には、これまで何度も進入しているのでいつものように立ち入ったところ、本堂よりお寺の方で出てきて、

「手塚治虫さんの墓でしょうか。」

と聞かれたので、正直に大槻俊斎の墓を詣でたことを告げると、線香をあげるように言われた。 お寺の方によれば、長らく宮城県の大槻家の方から人は見えていないという。

 

俊斎 大槻家累代之墓

 

 大槻俊斎は、文化三年(1806)の生まれ。十八歳のとき江戸に出て、高橋尚斎の学僕となり、ついで手塚良仙の門人となり、さらに湊長安の紹介で蘭学者足立長雋の門に入って蘭学を学び、高野長英、小関三英、渡辺崋山らと交わった。天保八年(1837)、長崎に遊学し、天保十一年(1840)、江戸で医を開業した。やがて仙台藩医にあげられた。当時種痘法が移植されると伊東玄朴、戸塚静海らの同志の洋医とともに種痘館の設立を図り、安政五年(1858)、江戸神田お玉ヶ池にて開所した。万延元年(1860)、幕府の医官となって御番医並びに種痘所頭取となった。人物闊達といわれ、幕末西洋医学界の中心人物、種痘法普及のほか、「銃創瑣言」を著わして、軍陣医学の先鞭をつけた。文久二年(1862)、年五十七で没。

 

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