史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

弘前 Ⅲ

2016年09月01日 | 青森県
(梅林寺)


梅林寺

木村藹吉は、天保十一年(1840)弘前藩の重臣の家に生まれ、文久二年(1862)江戸に出て福沢諭吉の塾で学んだ。その後、洋式兵術を江川塾で修得して帰郷し、藩の兵制の洋式改革に貢献した。戊辰戦争、箱館戦争では弘前藩の大隊長として腕に砲弾の破片が当たる怪我をしながら奮闘した。維新後は、兵部省に属し、一等中警部心得として東奥義塾の学生を引き連れ西南戦争に参加しようとしたが、その途中、終戦により京都で解隊して帰郷した。その後、北海道の開拓を志したが、明治十二年(1839)三十九歳で亡くなった。


木村藹吉墓

(隣松寺)


隣松寺


岩田恵則墓

岩田恵則(よしのり・やすのり)は、文政元年(1818)弘前藩士の家に生まれた。安政四年(1857)、洋流兵学研究のため江戸に出て塩谷宕陰に学び、のち清水太郎について学んだ。安政六年(1859)、弘前に帰り、学問所西洋砲術の教官となった。文久三年(1863)、再び出府して大鳥圭介、江川太郎左衛門に入門。西洋砲術を研究、翌元治元年(1864)弘前に戻って、藩の兵制改革に指導的役割を果たした。その兵学は江戸でも知られ、薩摩藩士黒田清隆、伊東祐亨らも教えを乞うた。箱館戦争に参加後、明治四年(1871)、兵部省に出仕。翌年海軍省に移り、造船局砲器科勤務を命じられた。明治九年(1876)辞職。明治二十八年(1895)、七十八歳で没。


小山内建麿墓

小山内建麿(たけまろ)は天保二年(1831)の生まれ。性剛直で、深く藩主に信任され、手廻から転じて側役、郡奉行、勘定奉行の三職を兼ね、治績があった。さらに転じて藩学稽古館講司となり、学事の振興に努めた。維新の際、弘前藩の向背定まらない時、率先して勤王の大義を唱え、箱館戦争には監軍として功があった。のち朝廷に徴され、宣教使に任じられ、また岩木山神社権宮司に補され、神道の興隆に尽くした。明治三十五年(1902)、年七十二で没。

(陽光院)


陽光院


中田盛彌墓

中田盛弥は諱産紀とも。卒。城下山道町住。清作の子。千葉平弥隊砲手。明治元年(1868)九月二十二日、陸奥野辺地にて戦死。二十九歳。

(宝泉院)


宝泉院


香遠佐々木元俊墓

佐々木元俊は文政元年(1818)の生まれ。父は町医の佐々木秀庵。元俊は諱。雅号は香遠。嘉永元年(1848)江戸に上り、杉田成卿の塾に入り、蘭学を学んだ。安政元年(1854)、弘前藩の命令で種痘を購入し、国元に送った。安政六年(1858)、藩学稽古館に蘭学堂が設けられるに及び、その学士となった。蘭語辞書を翻刻して「蕃語象胥」として出版したり、硝石や火薬の製造に従った。文久二年(1862)より医学館にて種痘を行い、明治六年(1873)までその数二万余にのぼった。明治五年(1872)からは青森県立病院の開設に当り、これを指導した。明治七年(1874)、年五十七で没。

(福寿院)


福寿院


五十嵐貞隆翁墓

五十嵐貞隆は、文化十一年(1814)の生まれ。文久三年(1863)、弘前藩が御所警護の親兵を派遣したときその隊長に任じられた。戊辰戦争では藩兵を率いて秋田藩領まで進出し、盛岡藩と戦った。明治二十年(1887)没。

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