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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

玉名 下 Ⅱ

2016年04月10日 | 熊本県
(松村大成旧宅)
 さて、前回の玉名訪問で探し当てられなかった松村大成・深蔵旧宅跡を真っ先に訪ねる。今回は、意外とあっさりと見つけることができた。家の前の「松村大成旧宅」と手書きで記された看板が目印である。
 旧宅跡から道をはさんで東側に松村家の墓地があり、松村大成、深蔵や永鳥三平らの墓がある。


松村大成旧宅

(松村家墓所)


空谷先生墓(松村大成墓)

 松村大成は文化五年(1808)、玉名郡安楽寺に生まれた。雅号は空谷。永鳥三平は実弟。代々医を家業としたが、幼にして富田大鳳の子、文山の門に入り、医・儒を修めるとともに、槍剣の道にも励んだ。二十九歳で家塾を開き子弟を教育したが、尊攘思想を抱き、嘉永六年(1853)、永鳥三平を諸国へ歴遊させて天下の大勢を報告させた。自らも上京し、安政・万延の間に中山忠愛とともに復古の策をたてたが、失敗して帰国した。文久二年(1862)、田中河内介、清河八郎らが肥後に来り、勤王活動を推進したとき、大成の家に宿泊しここを拠点として活動した。真木和泉、平野國臣、小河一敏と謀って京師に義を唱えんと尽力した。肥後勤王党が名実ともに成立したのはこの頃であり、大成は実質的にその推進者であった。文久三年(1863)八月の時局変転に譴責を蒙り、閉門に処された。慶応二年(1866)、病気療養中に孝明天皇の逝去を聞き、天を仰いで慨嘆した。病気が悪化して翌年正月死去した。年六十。性格廉直で多くの人を愛し、志士四方より来り会して勤王の議を策した。私財を投じて志士を助けること三万両に及んだ。


松村秀實之墓(松村深蔵墓)

 松村深蔵は、天保八年(1837)、大成の長男に生まれた。父の薫陶により文武を錬磨し、勤王の志を持す。松村家は梅林村の豪農で、医・儒の家柄であった。父大成の人柄を慕い、長州・薩摩をはじめ他国の志士は必ず松村家を訪れたため、深蔵は父の命を受け、東奔西走し、とくに清河八郎を肥後勤王党に斡旋し、宮部鼎蔵、河上彦斎などと親交があった。たびたび上京し幕末の情勢を肥後に伝えた。文久三年(1863)、撰士(親兵)貢献により伍長となって上京。同年八一八の政変では会薩討伐の急先鋒であった。維新後、諸職を経て判事となった。明治二十三年(1890)、年五十で没。


永鳥秀貫之墓(永鳥三平墓)

 永鳥三平は、文政七年(1824)、松村安貞の二男に生まれた。長兄は松村大成。儒学を近藤淡泉、国学を林桜園に学んだ。尊攘思想を抱いて上京し、梅田雲浜、鳥山三河介、佐久間象山、藤田東湖、安島帯刀らと交わり大いに活躍した。一橋慶喜擁立は、永鳥三平の発意に基づくといわれる。帰国後、藩譴を蒙り家に禁固させられた。文久二年(1862)以来、肥後勤王党の成立に関して、幽閉中ながら尽力した。文久・元治の頃より勤王勢力が次第に盛り返し、朝命により召されたが、病床にあって参加できず。その後、病状悪化して慶応元年(1865)八月、死去した。年四十二。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (朝トマト)
2018-05-02 22:10:32
いつも参考にせて頂きております
ご質問をさせていただきたいのですが
今度、松村大成旧宅 に行こうかと思っておるのですが、詳細の場所か、何か目印になる建物等がご存知でしたらご教示いただきたく思います
返信する
松村大成旧宅について (植村)
2018-05-06 17:30:11
朝トマト様

GW留守にしてまして、返信が遅れました。

訪問に際して、以前玉名市の商工観光課よりいただいた情報を下記に転送します。

玉名市下1624付近です。松村一族の墓も屋敷東側の道を挟んだ北東側にあります。屋敷は空き家で常時一般には解放されていません。個人宅ですので見学に際してはご留意下さい。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-05-07 20:53:04
ご返信ありがとうございました
参考にさせていただきます!
返信する

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