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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

外ヶ浜

2016年09月03日 | 青森県
(平舘台場跡)
今回の青森行を計画したのが遅かったので、最も難渋したのが宿泊場所の確保であった。青森市内や弘前市内のホテルはどこも満杯で、空いているのは一泊二万円以上もする部屋しかなかった。どうせ寝るだけだし、ホテルライフを楽しもうという気もない私としては一泊二万円超というのは採算が合わない宿泊費であった。半ば諦めつつネットで検索していると、平舘台場の近くにペンションを発見した。夕食・朝食付きで一泊七千八百円はお得である。躊躇なく予約した。
夕食はイカやウニなど近海の海の幸を盛り合わせた豪勢なものであったし、いつも史跡旅行でコンビニのオニギリか菓子パンで済ませていることを思えば十分過ぎる朝食であった。このペンションはこの場所で二十九年の長きにわたって営業を続けているそうで、コストパフォーマンスや家族的な雰囲気を経験すれば、その理由も納得できるだろう。
前夜は夜行バスで寝苦しい夜を過ごしたが、のびのびと身体を伸ばして眠る快適さを存分に堪能した。部屋にはエアコンも付いていたが、窓を少し開けるだけで心地よい冷気が部屋に入ってくるので、エアコン無しでもまったく快適であった。

旧幕軍の侵攻により松前を追われた藩主松前徳広は、熊石から出帆して平舘付近に上陸した船内で死亡した前藩主崇広の娘鋭姫(五歳)は平舘の福昌寺に仮埋葬された。徳広も上陸後、一週間足らずで病死した。松前藩にとって悲惨な歴史がこの地に刻まれている。


ペンションだいば


平舘台場跡


朝食前に散歩がてら平舘台場跡を見学する。この台場は、嘉永二年(1849)に弘前藩が構築したもので、弘化四年(1847)に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸した事件を受けて、急遽築造されたものである。台場の遺構は、土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が七か所、出入口が二か所残されている。土塁の高さは約二・三メートル、幅は概ね十メートルで、土塁内部は南北八十メートル、東西十一メートルほどである。遺構が良く保存されている。
この台場を東北旅行中の吉田松陰も視察し、「此れ尤も要扼の処なり。台位已に其の所を得、而して台の制(つくり)も亦頗る佳し」と称賛している。

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