史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大田原

2011年11月09日 | 栃木県
(城山公園)
 下野における戊辰戦争での激戦地の一つ、大田原を訪ねた。激闘が交わされた大田原城跡は、どういうわけだかあちこちに虎ロープが張られ、本丸、二の丸といった城郭跡に近づけない。「怪しからん」と息巻いたが、この後、大田原神社、光真寺を歩いて事情が分かった。今年三月十一日に東日本を襲った大震災では、栃木県でも震度6強を観測した。東京では、震災による電力供給不足から節電一色の夏であった。「節電」が一種のブームだったが、九月九日には政府が電力使用制限を前倒しで解除したこともあって、急速に旧に復した感がある。依然としてテレビや新聞では、被災地の苦境を報じているが、もはや東京では他の国の出来事になっている。少なくとも私は、栃木県の山間の街が未だ元に戻っていないということは予想もしていなかった。今回、大田原で被災の現実を目の当りにして、改めて未だ被災地は復興途上にあることを痛感することになった。どちらかというとマスコミの報道では津波の被害甚大だった沿岸部を取り上げる傾向にあるが、実は山間部にも被害は及んでおり、しかも地震から半年以上が経過した現時点でも復旧していない。日本人は熱しやすく冷め易い。来年の夏は、節電や大震災があったことなどすっかり忘れて、被災地以外では今まで通りの生活に戻ってしまうことが容易に想像できる。夜の街ではネオンが煌々と灯され、室内は冷蔵庫のように冷やされるのではないか。地震のことを忘れないためにも、時折、被災地を訪れることに意味がある。


大田原龍城公園

 大田原城は、外様大名大田原氏一万千石の居城である。小さな丘(龍体山)の頂上に本丸が設けられ、その南側に二の丸、三の丸があった。三の丸には城主の居館のほか、弾薬庫、作事小屋や藩校が設けられた。
 戊辰の戦火が大田原に及んだのは、慶應四年(1868)五月二日のことであった。会津藩に白河城を占拠された新政府軍にとって、白河進攻への拠点として大田原は重要な意味をもった。閏四月二十二日、板室の戦闘で敗れた会津・旧幕軍は、大田原に進撃した。新政府軍とともに大田原藩は芦野宿、白河口に主力を進出させていたため、大田原城を守っていたのは二百名足らずの兵力であった。会津・旧幕軍は、二手に分かれて進撃し、守兵を簡単に突破して城下に至った。城下の侍屋敷に火が放たれ、大手門に迫った。大田原城は落城寸前かと思われたが、折からの豪雨により攻撃の行く手を阻んだ。この時、三の丸作事小屋で弾薬に引火し大爆発が起こった。これを後方からの伏兵と勘違いした会津・旧幕軍は、泥まみれになって逃げまどい、撤収を余儀なくされた。

(大田原神社)


大田原神社

大田原神社境内には明治十年(1877)に建立された招忠魂碑があるはずだったが、境内にあった石灯籠や鳥居などはことごとく崩落し、跡かたもない。残念ながら招忠魂碑も発見できず。

(光真寺)


光真寺

 大田原氏十三代大田原資清が光真寺を墓所と定め、以来二十八代勝清に至るまで、この寺に埋葬された。ここでも墓石が倒壊したまま手が付けられていない。実は光真寺の墓地には官修墓地があるが、墓地はとてもまともに歩ける状態になかった。また出直すことを誓って、この日は撤退した。


官修墓地 阿久津又次郎忠順墓
完全に倒壊している


二十七代 大田原冨清公墓

 二十七代大田原冨清は、丹波綾部藩九鬼家の出身であるが、大田原藩主広清の死去とともに家督を継いだ。駿府城加番、大阪城加番などに任じられたが、文久二年(1862)大阪加番として任地に赴いて間もなく、大阪で病のために逝去した。二十七歳であった。


二十八代 大田原勝清公墓

 大田原勝清(別名一清)は、大田原藩最後の藩主である。戊辰戦争当時未だ八歳であった。戦火が城下に迫ると城を脱して領内の片府田村や下郷陣屋等に匿われた。維新後は大田原藩知事に任じられたが、廃藩置県により免官。昭和五年(1930)七十歳で世を去った。

(観音堂)


早川先生墓

 元町二丁目の観音堂(といっても、掘立小屋のような祠が建てられているだけであるが…)に、大田原城坂下門の攻防で戦死した戦士隊組頭早川永宣(ながのり)の墓がある。早川永宣は、会幕軍の二ノ丸進攻を阻止するため、土塁上で奮戦するところ、銃弾を浴びた。

(宝寿院)


宝寿院


戦死供養塔

 大田原南郊片府田・佐良土は、水戸諸生党と新政府の命を受けた大田原藩、彦根藩、阿波藩が遭遇し、激戦となっている。
 市川三左衛門の率いる水戸諸生党は、会津から越後へと転戦したが、水戸藩尊攘派が海津に出陣したことを知り、水戸城を奪還するため、三斗小屋宿を経由して南下した。二時間足らずの戦闘で、諸生党の戦死者は、十名。新政府軍の戦死者は四名であった。
片府田での戦死した水戸諸生党と長岡藩兵を弔うために、二十一回忌に当たる明治二十一年(1888)、村の女性たちの手によって宝寿院に戦死供養塔が建立された。台石に「村女人中」とある。

(佐良土)


戦死塔

 佐良土(さらど)でも水戸諸生党と黒羽藩兵との戦闘があった。佐良土交差点の側の小川のほとりに「戦死塔」と刻まれた自然石の墓碑がある。道路拡幅のために現在地に移されたもので、以前は道路に面していたという。建立されたのは、明治元年(1868)九月二十七日。半ば草に埋もれている。

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