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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

筑西

2009年07月11日 | 茨城県
(下館城跡)


下館城址

 慶応四年(1868)四月十七日早朝、旧幕諸隊を率いる土方歳三は、二門の四ポンド山砲を据えて下館城の大手門に照準を合わせ、軍使を城内に派遣し降伏を勧めた。
 下館藩は、石川家二万石の小藩である。藩主石川総管(ふさかね)は、小大名でありながら、幕末に講武所奉行、陸軍奉行並、若年寄を歴任した若手官僚のホープであったが、土方隊の接近を聞いて早々に城を出て、水戸に逃れていた。残された藩士たちには抵抗する兵力もなく、兵糧を提供して窮地を凌いだ。

 下館城も古い歴史をもつ城であるが、これまた完璧なほど遺構らしきものは残されていない。本丸跡に下館城址の石碑と八幡神社が建てられているのみである。神社に隣接する高台に下館小学校が建てられているが、この土塁も城の遺構かもしれない。


贈従四位渋谷君碑銘

 八幡神社の境内に、下館藩士渋谷伊予作の顕彰碑がある。渋谷伊予作実行は、勤王の志を募らせ、文久元年(1861)には脱藩して上京、明治天皇の外祖父の家である中山家に仕えた。文久三年(1863)、長州藩が外国船を砲撃したことを聞くと、奇兵隊に身を投じた。のちに京都に戻って中山忠光の小姓頭となり、元治元年(1864)天誅組挙兵に参加。“天誅組四天王”の一人と称された。賊名を晴らそうと藤堂藩に謁を乞うたが、捕えられて投獄。同年三月、刑に処された。二十三歳であった。

(飯田軍蔵の墓)


贈正五位飯田軍蔵之墓

 飯田軍蔵は、天保三年(1832)木戸村の名主の家に長男として生まれた。筑西市木戸の飯田医院の裏の空き地に墓が建てられている。
 飯田軍蔵は、十五歳で江戸に出て安積昆斎に師事し、のちに水戸の弘道館に学ぶ。兵学、武技を学ぶ傍ら、勤王の諸士と交わり尊王攘夷思想を募らせた。
 元治元年(1864)、田丸稲之右衛門、藤田小四郎らとともに筑波山にて挙兵した。同年七月には幕府追討軍の陣地である下妻多宝院を奇襲して快勝を得た。そのとき軍蔵は寺の再建の資金として二十五両を寄付したという。
 更に天狗党は、武田耕雲斎と合流して東茨城小川町に陣をひいて、幕府軍宇都宮藩と激戦を交わした。軍蔵は大いに軍功をあげたが、十月十六日の部田野原の戦闘で左脚膝部に銃創を負い、後方に移送された。鉾田で治療を受けているところを幕府に知られ、間もなく捕えられ笠間の獄に入れられた。直後、創傷が悪化して死亡した。行年三十一。

(千妙寺)


千妙寺

 筑西市黒子にある千妙寺は、観応二年(1351)の開山と伝えられる古刹である。意外なほど広い境内に幾つも石碑が並んでいるが、その中で頭一つ背の高い石碑が飯田軍蔵を顕彰する忠烈碑である。


忠烈碑

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