(延岡城)
延岡藩は、江戸初期より高橋氏、有馬氏、三浦氏、牧野氏と藩主が変わったが、十八世紀中ごろに内藤氏が転封され、以来明治維新まで続いた。大手門前の内藤家墓所には歴代藩主やその婦人子息の墓があるが、幕末の当主内藤政義の墓は青山霊園にある。内藤家は代々養子が続いたが、内藤政義は彦根井伊家から入った。井伊直弼は実兄である。政義を継いで最後の藩主となった内藤政挙(まさたか)は、掛川藩の太田氏から入った人である。維新後の延岡の経済発展に尽くした功で、大正時代に延岡城に銅像が建立された。戦時中金属供出で姿を消したこともあったが、現在の銅像は昭和六十年(1985)に再建された三代目である。
延岡城北大手門
延岡市街
本丸跡から延岡市街を見下ろすことができる。中央の煙突は、旭化成のものである。かつて内藤家七万石の城下であった延岡は、今や旭化成の企業城下町となっている。
内藤政挙公像
北大手門の前に城山墓所と呼ばれる内藤家の歴代当主およびその家族を埋葬した墓地がある。明治四十二年(1909)、五ヶ瀬河畔改修工事に伴い、政挙が城山の一画を墓所と定め、一族の墓碑を三福寺墓地から改装したもので、さらに平成十二年(2000)、東京の青山霊園から旧藩時代の合葬塚二基を移送し、現在の形となった。
城山墓所(内藤家墓所)
(内藤記念館)
延岡城の西の丸跡地に歴史資料博物館で、考古資料や民族資料を多数保存展示している。中には西南戦争関係資料もあるとのことで、楽しみにしていたが、何と臨時休業中であった。
臨時休業中にも関わらず、私が建物の周囲を未練がましくうろついていたものだから、中から職員と思しき方がお二人も出てきて、今は休業中で拝観ができないこと、秋にはリニューアルオープンすることを説明いただいた。どう考えてもお仕事の邪魔をしているようだったので、直ぐに撤収した。
内藤記念館
(野田神社)
明治十年(1877)、西南戦争が起こると、旧内藤藩士を中心に党薩延岡隊として参戦した。延岡隊は、大島景保を隊長として、第一陣百八十人は延岡を出陣し、熊本百貫石の守備についた。その後、熊本で敗れた薩軍とともに各地を転戦敗走し、八月十三日、松山の松尾城址にて一夜を明かした。翌十四日早朝、岩鼻から舟で渡り西に向かい野田に達し、川を挟んで官軍に応戦した。やがて薩軍が和田越方面に走ったと知り、「今はこれまで」と延岡隊四十名は官軍に投降し、武装解除の上、収容された。野田神社付近は、延岡隊が最後に奮戦した場所である。
野田神社
延岡隊最後の奮戦地跡
(慈眼寺)
延岡市慈眼寺は勤王僧と呼ばれた胤康が住職を務めた寺である。境内には遺墨や遺品を展示する胤康記念館や胤康の像、墓、慰霊碑などがある。残念なことに、記念館は鍵がかけられており拝見できなかった。
慈眼寺
贈従四位 胤康禅師之墓
胤康和尚記念館
胤康像
従四位僧胤康碑
僧胤康墓碑銘
胤康は文政四年(1821)の生まれ。父は篠崎郷右衛門、あるいは北条氏康の子孫と称する北条金兵衛ともいわれる。八歳のとき、某家へ養子にやられると聞き、日頃可愛いがってくれていた赤塚村(現・東京都板橋区)松月院の大隣天休という僧のもとに走ってその弟子となった。天保五年(1834)、天休に従って日向臼杵郡北方村慈眼寺に来た。胤康は、儒仏・軍学を修め、勤王の志厚く、嘉永の初め豊後竹田に赴いて岡藩に勤王思想を鼓吹した。文久元年(1861)、天休の跡を継いで慈眼寺住職となった。文久二年(1862)、島津久光上京の機会に事を挙げんとし、幕府に縁故のある延岡藩に朝廷に応じるよう説いたことから、翌文久三年(1863)三月、捕らえられ、のちに京都町奉行所に護送され獄死した。年四十六。
(山内善吉家)
熊本方面の戦闘に敗れて敗走した薩軍は、人吉にて約一か月、宮崎にて約二カ月滞陣した。明治十年(1877)七月三十一日、宮崎下北方の帝釈寺を出た西郷は、都農の桝屋河野宗平方に宿営した。八月二日朝、桝屋を発し、船越、奥伊形、中村を経て、三須より大瀬川を渡り、大貫西ノ園の戸長役場であった山内善吉家に入った。西郷は山内家に八泊九日、宿陣n
後、八月十日、山内家を出て、一路城山を指して進み、その夜は原時行邸(旧・税務署跡)に宿営した。翌十一日朝、原邸を出て、豊後口より舟に乗り、五ヶ瀬川を下り北川へ向かった。その夜は、北川増水のため船中露臥。十二日に北川熊田の吉祥寺に宿陣した。即ち、この場所は、西郷が初めて延岡入りした場所である。
西郷宿陣の地
(中城家)
延岡市三須町の中条家に、別働第二旅団長山田顕義が宿営した記録が残っている。
大瀬川沿いに「西南之役史跡」と書かれた木柱が建っており、そこを入ると数十メートルのところに中条家がある。
西郷が宿営した山内善吉家は、ここから自動車で二・八キロメートル程度だが、直線距離にすれば、大瀬川を挟んで六百メートルという近さである。
西南之役史跡入口
山田顕義少将宿営の地
中条家
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