史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

飫肥 Ⅱ

2022年09月10日 | 宮崎県

(五百禩神社)

 

五百禩神社

 

 五百禩(いおし)神社の前身は、報恩寺といって、飫肥藩初代藩主伊東祐兵(すけたけ)のために建立された伊東家の菩提寺であった。明治五年(1872)の廃仏毀釈によって廃寺となり、その跡地に五百禩神社が建てられた。本殿が完成したのは、明治九年(1876)のことであった。報恩寺時代の庭園が今も残されている。

 

旧報恩寺庭園

 

平部嶠南墓

 

 平部嶠南(きょうなん)は、文化十二年(1815)の清武町中野の生まれ。幼年より秀才の誉れ高く、安井息軒の教えを受けた。天保四年(1833)、江戸に上って古賀侗庵の門に入り、帰途水戸の諸学者を訪れた。帰国して藩校振徳堂の教授となり、弘化元年(1844)、江戸桜田邸副留守居、のち家老となった。薩摩藩が討幕に成功し、飫肥藩は佐幕派とみられて攻められそうになったとき、嶠南が薩摩藩に行って弁解し事なきを得た。官を辞してから宮崎県内を実地調査し、八年かかって「日向地誌」(活版 千六百二十ページ)を著わした。明治二十三年(1890)、年七十六で没。

 

 伊東家累代墓地は、戦国大名伊東義祐をはじめとして、飫肥藩初代藩主伊東祐兵以下、歴代藩主および夫人や子女の墓がある。ただし江戸で没した十三代藩主伊東祐相の墓は東京の谷中霊園にある。

 

伊東家累代墓地

 

正八位伊東直記之墓

 

 伊東直記は、天保六年(1835)生まれ。日向飫肥藩の家老。明治二年(1869)、版籍奉還により同藩の権大参事、明治四年(1871)の廃藩置県後は郡長をつとめた。西南戦争では飫肥隊を編制して総裁となり、西郷軍に属して戦ったが政府軍に投降。懲役七年の刑を受けた。出獄後、南那珂郡長。明治三十六年(1903)、死去。年六十九歳。

 

伊東祐帰墓

 

 伊東祐帰(すけより)は、安政二年(1855)の生まれ。父は伊東祐相。明治二年(1869)、父の跡を継いで二代知藩事となった。明治十年(1877)の西南戦争勃発時には、飫肥士族に対し、西郷軍に加担しないよう手紙を送っている。明治二十七年(1894)、四十歳にて死去。

 

伊東祐弘墓

 

 伊東祐弘は、明治十三年(1880)、伊東祐帰の長男に生まれている。明治四十四年(1911)、貴族院議員に選出。昭和六年(1931)没。

 

小村寿太郎候之墓

 

侯爵小村寿太郎墓

 

 小村寿太郎は、安政二年(1855)、飫肥藩士小村寛、梅夫妻の長男に生まれた。文部省留学生として渡米し、ハーバード大学を卒業した。明治十三年(1880)帰国して、司法省に入り、明治十七年(1884)、外務省に転じた。明治二十六年(1893)、清国に赴任。日清開戦外交をリードした。戦後は外務省の実力者として韓国問題の処理にあたり、明治二十九年(1896)、小村・ウェーバー協定を締結した。のち外務次官、駐米・駐清大使を経て、明治三十四年(1901)、外務大臣に就任し、日英同盟締結、日露開戦外交を主導した。明治三十八年(1905)、全権としてポーツマス条約に調印。明治四十一年(1908)、再び外相に就任。明治四十三年(1910)、韓国併合にあたり、明治四十四年(1911)には関税自主権回復を実現した。同年、侯爵に叙されたが、この年五十六歳にて死去。

 

 小村寿太郎といえば、何といっても吉村昭の小説「ポーツマスの旗」である。「ねずみ公使」と揶揄されるほど小柄でありながら、ロシア全権のウィッテを相手に堂々と渡りあう姿は痛快ですらある。

 

小村寛墓(右から二つ目)

小村梅墓(左から二つ目)

 

小村家の墓

 

(西公園)

 

招魂社

 

 五百禩神社の上の西公園(上城公園とも)に西南戦争戦没者墓地、いわゆる招魂社がある。西南戦争以降、日清日露戦争の戦没者を祀っている。

西南戦争に飫肥隊として参戦したのは五百余名、うち六十六名が戦死している(招魂社の台座には小倉處平ほか六名の氏名と「外七十柱」とある)。その中に「飫肥西郷」とも称された小倉處平の墓もある。小倉處平は、明治初年に大学改革として貢進生制度を提唱し、飫肥藩出身者として初めてイギリス留学を果たしたが、西南戦争が勃発すると、官を辞して飫肥隊を率いて薩軍に身を投じた。

 

西南役紀念碑

 

飫肥隊墓所

 

嗚呼小倉處平之墓

 

 小倉處平は、弘化三年(1846)、飫肥藩士長倉喜太郎の次男として生まれた。十八歳のとき、小野家の婿養子となり小倉に改姓した。元治元年(1864)、藩命をおびて京都へ赴き、藩外交に当たった。帰藩後、藩校振徳堂の句読師となった。慶應三年(1867)、句読師を辞して、江戸の息軒塾(三計塾)で学び、陸奥宗光らと交流を得た。明治二年(1869)、小村寿太郎らを引率して長崎に遊学。さらに東京に出て大学南校に入った。明治三年(1870)、貢進生制度を政府に建議し、翌明治四年(1871)、官名により英国へ留学。征韓論に敗れた西郷が下野すると、處平に帰国命令が下った。明治七年(1874)、佐賀の乱ののち、江藤新平が飫肥に来たのを匿い、一行を外ノ浦から土佐へ逃した。明治十年(1877)、西南戦争が起こると、飫肥隊を編成して西郷軍に加わった。處平は奇兵隊軍監として参戦したが、八月十五日の和田越の戦いで銃創を負い、八月十八日、高畑山の中腹で自刃した。享年三十二。

 墓石には、「嗚呼小倉處平之墓」と刻まれている。「嗚呼」という感嘆詞に飫肥の人達の嘆きが込められている。處平は、飫肥の士風といわれる「誠」を信条として、信念に生き大義に殉じた生涯を貫いた。

 

日清戦争戦没者墓所

 

 長年、訪れたいと渇望していた飫肥の探訪はこれまで。滞在時間はわずか二時間余りであったが、まずまず満足すべき成果であった。機会があれば、またゆっくり歩いてみたい、と思わせる街であった。

 

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