「花山院「偽官軍」事件」に続く長野浩典氏の著書。明治初年の明治政府による一連の攘夷派弾圧事件を解明し、奇兵隊脱退騒動から久留米藩難事件(大楽源太郎暗殺)に至る様々な事件――― 日田県騒動や二卿事件、廣澤参議暗殺、雲井事件、初岡事件等々 ―――を見事に線で繋いで見せた傑作である。
「あとがき」によれば一連の攘夷派弾圧事件に関する研究の進化が見られず、言わば黙殺されている状況のようである。本書では、山口藩の脱退騒動から、大楽源太郎らの脱徒を九州諸藩(主に二豊両筑)が匿い、それを明治政府が厳しく追及し、最後は久留米藩難事件に至る経緯を明らかにした。廣澤参議暗殺事件を契機に明治政府は、反政府攘夷派の検挙に本腰を入れ、その結果、――― ほぼ廣澤参議暗殺とは無関係な人物まで含めて ―――三百人を超える反政府分子が捕らえられ、その多くが斬罪や長期の禁固刑に処された。その規模は、安政の大獄を遥かに凌ぐ。廃藩置県という革命が、ほとんど抵抗らしいものがなく成し遂げられた背景に、薩長土の兵力を東京に集約し、その武力を背景に実行されたことが従来指摘されてきた。その前に「不良徒」を根こそぎ一網打尽にした「明治の大獄」による地ならしがあったという主張は非常に説得力がある。
特に本書でページを割いて解説しているのが鶴崎(現・大分県大分市、熊本藩の領地)にあった有終館の存在である。現在、大分市の有終館跡には小さな石碑が建っているのみであるが、ここが反政府攘夷派の軍事拠点になっていたという事実は本書で初めて知った。有終館を反政府の拠点にしたのは、高田源兵(こうだげんべい)こと河上彦斎、それと鶴崎出身の儒学者毛利空桑である。
熊本藩 有終館跡
河上彦斎といえば、元治元年(1864)に佐久間象山を京都木屋町で斬殺し、「人斬り彦斎」の異名をとった人物である。ただし、記録に残る限り、彦斎が手を下した暗殺は象山のみである。「人斬り」と称された連中の多くが殺人マシーンと化していたのとは一線を画し、攘夷思想家として、或いはその実践家として存在感を高めていった。
本書では高田源兵と名乗った彼の人物像も紹介している。身の丈は「五尺(150センチほど)を超すか超さないかという短躯で、色は白くやせ型で、人と語るときは女のようなやわらかい声をだしていた」との証言もある。その一方で、突然激音で一喝し、部下や周囲の人間に恐怖感を抱かせることもあったようで、つまり硬軟併せ持った人物だったようである。山口藩の諜者と疑われた沢田衛守を斬るように命じられた中村六蔵(熊本藩士)が逡巡していると、「ヤッテシマエ」と怒鳴られ、中村は恐怖に駆られて衛守を斬殺した。この辺りの手法は、カルト教団の教祖に近いものがある。
高田源兵(河上彦斎)は、「大事業を成すには、長州奇兵隊や草莽・不良の徒の集合体では成功は覚束ない。本藩(熊本藩)の力を借り、熊本領内の郷士のうち、いわゆる鞠躬(きっきゅう=慎み深い様)の者を抜擢し、この者たちと協同して尽力しなければ、成功はしない」というのが持論で、軽々に挙兵しようとはしなかった。また幕末に薩摩の西郷隆盛と会談したことがあったが、その時「幕吏を除かねばならない」というところで意見は一致したものの、いざ実行という段になって西郷が尻込みしたことから、以来西郷および薩摩藩を信用していなかった。周囲が薩摩藩との連携を勧めても、それに関しては一切耳を貸さなかったという。頑固な一面もあったようである。高田源兵に限った話ではないが、結果的に九州各藩は最後まで藩の枠組みを超えることができなかった。
明治三年(1870)十一月から翌年初めにかけて東北と九州地方において農民一揆・騒動が多発した。当時政府の直轄地であった日田県でも、日田県騒動(もしくは日田県一揆、日田竹槍騒動)と呼ばれる騒動が発生した。この騒動と前後して、日田県では九州の攘夷派や草莽、浮浪、僧侶らによる「日田騒擾」が勃発する可能性も高まっている。参議木戸孝允は、攘夷派の目的は反政府攘夷派らが、農民一揆を扇動していると見て、直ちに攘夷派の弾圧に踏み切った。しかし、結果的には日田に潜入していた攘夷派側の間諜が日田県官に捕らえられ、それを契機に次々と関係者が捕縛され、日田騒擾は未遂のまま終わった。日田県一揆をおこした農民たちと攘夷派の接点はなく、計画は杜撰なものであった。ここでも農民らと攘夷派が「反政府」で結束し、組織的な動きができれば政府をもっと震撼させる事件に発展する可能性もあったが、彼らにそこまでの組織だった活動は見られなかった。
高田源兵が主催した有終館は解散させられ(明治三年(1870)七月)、彼が挙兵の謀議を行った形跡はあるものの具体的な反政府行動に出たわけではないし、大楽源太郎を匿ったのはごく短期間で武器供与も未遂に終わっているし、もちろん廣澤参議暗殺事件に関わりはない。高田源兵が反政府攘夷派の巨魁というだけで捕らえられ、彼を明確に処分する罪名はなかったにも関わらず、明治四年(1872)十二月、判決が下されると即日斬罪に処された。
本書では、高田源兵のほかにも毛利空桑、大楽源太郎、矢田宏、山本與一(村尾敬助)、小河一敏、小串為八郎、廣田彦麿、初岡敬冶、中村六蔵(平井譲之助、澤俊造)、木村弦雄、古荘嘉門、直江精一郎、古松簡ニといった歴史に埋もれた人物を丹念に拾って紹介している。「明治の大獄」で処分された不良の徒は三百人に及ぶというから、掘り起こせば興味深い人物がまだまだ出てくるだろう。今後この方面の研究がさらに進むことを期待したい。
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