史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

南アルプス Ⅱ

2021年12月11日 | 山梨県

(明行寺)

 広瀬平五郎の墓を求めて南アルプス市藤田(とうだ)の明行寺を訪ねた。本堂の近くに広瀬中庵の墓があり、同じ墓域に平五郎の墓もある。

 

明行寺

 

廣保院中庵日周(広瀬中庵の墓)

 

 広瀬中庵は、江戸後期の儒医。名は周平、中庵と号した。市川大門の広瀬保益の四子で、藤田村五味季政の娘と婚し、広瀬家を称した。早くから俊敏の名を高め、藤田の儒学者五味釜川、京都の儒医香川南洋などから漢学、医学などを学んだ。天然痘研究書の「痘科鍵抜粋」「中庵集」他の著書がある。明治初年、京都の病院長となった名医広瀬元恭は孫にあたる。文化七年(1810)、七十八歳にて没。

 

雨鳴院廣瀬和達居士(広瀬平五郎の墓)

 

 広瀬平五郎は、文政元年(1818)の生まれ。諱は和達、雅号は雨鳴と称した。父は医師広瀬恭平。少年時代家業である医術とともに、西花輪村の時習館で儒学その他諸学を学び、天保五年(1834)、十七歳で村役人見習、同村の長百姓となった。京都にいる弟元恭から種痘法を学び、村民に普及したのが甲斐における種痘の始まりとなった。現存する嘉永年間の種痘日記、さらに安政五年(1858)から慶應三年(1867)にいたる種痘人名録は、詳細に種痘の普及分布を物語っている。明治初年、同村名主・戸長に専念して医師は廃業、地主化した。明治四十一年(1908)、年九十一にて没。

 

広瀬家

 

 明行寺の近くに立派な門構えの屋敷がある。広瀬の標札を掲げているので、広瀬中庵、平五郎の実家かもしれない。

 

 

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