史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

秋田 北部 Ⅲ

2022年10月08日 | 秋田県

(全良寺つづき)

 

故權大講義荒川秀種之墓(荒川久太郎の墓)

 

 荒川久太郎(きゅうたろう)は、文政十年(1827)の生まれ。諱は秀種。平田篤胤が秋田に来た時、十五歳であったが、教えを受けて、のち吉川忠行門下として国学と同時に洋式兵法は鉄砲鋳造を学んだ。文久三年(1863)、遊軍隊長となり、さらに洋式鉄砲の製法、操練の修得に励んだ。慶應二年(1866)、家督を継ぎ、宿老を勤めた。慶應四年(1868)の戊辰戦争の際は、奥羽鎮撫正副総督三卿の守護に同志とともに奔走し、庄内征討に出陣し武功をたて、藩主より二度も感状を受け、新知五十石を賜った。のち少参事心得、権少参事等を歴任した。明治十五年(1882)、年五十六で没。

 

金輪五郎友行墓

 

 金輪五郎は天保四年(1833)の生まれ。秋田藩家老渋江家の臣となり、金輪五郎と名乗った。勤王の志士と交わり、辻辰之助とも親交をもった。のち脱藩し、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩に属して戦い、ついで相楽総三の赤報隊に属した。その後、秋田藩に復帰し、東北戦争に出陣して負傷したが、同年十月、奥羽鎮撫副総督澤為量に従って上京。のち大村益次郎暗殺の嫌疑を受けて捕らえられ、同年十二月、刑死した。年三十六。

 

正五位小野崎通亮之奥墓

 

 小野崎通亮(みちすけ)の墓である。同じ墓域に父小野崎通孝の墓もある。

 小野崎通亮は、天保四年(1833)の生まれ。平田派国学を学び、吉川忠行、忠安父子らと尊王を主張した。文久三年(1863)、同志とはからって雷風塾を創立し、少壮子弟の首領となった。慶應四年(1868)、明徳館教授兼砲術頭を命じられ、戊辰戦争に際し、率先勤王を主張し、奥羽鎮撫総督澤為量に秋田滞陣を請い、庄内、南部の征討に従事した。明治二年(1869)、神祇官判事試補となり、明治三年(1870)、秋田藩権参事に任じられ、以後各職を歴任し、明治十五年(1882)、古四王神社宮司に任じられた。明治三十年(1897)。貴族院議員。明治三十六年(1903)、年七十一で没。

 

官軍 湊貞治墓

 

 墓石に刻まれたところによれば、明治十年(1877)三月十二日、熊本山鹿口鍋田にて戦死。年二十二歳。

 

官軍 少尉試補秋田蓮沼浩之墓

 

官軍 瀧澤信確胎髪之塚

 

官軍 諸井橘忠孝之墓

 

官軍 飯村直蔵之墓

 

 ほかにも同じ墓域に、西南戦争の戦死者の墓が四基確認できる。

 

(宝塔寺)

 

宝塔寺

 

官軍 秋藩 松山才之助正孝墓

 

 宝塔寺の墓地の上の方に七面堂と名付けられた御堂がある。その直ぐ手前に松山才之助の墓がある。

 松山才之助は、槍隊戦士。明治元年(1868)九月十二日、羽後長浜にて戦死。四十二歳。

 

(泉部落墓地)

 

官修墳墓

 

 本当はここでは、山中新十郎(藩御用商人)の墓を探したのだが、どういうわけだか、工藤姓と石塚姓の墓石ばかりで完全に空振りであった。

 そこで偶然に出会ったのが、官修墳墓の石碑。周囲を探してみると、戊辰戦争の殉難者の墓を一基発見した。

 

大越國純之墓(大越季之助の墓)

 

 大越季之助は、補監。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。三十一歳。

 

(川尻)

 

明治天皇御駐輦址

 

薪炭置場

 

 旭川(秋田運河)沿いには、米倉跡や薪炭置場跡を示す木柱が建てられている。川尻の町の目の前に秋田運河が横たわっており、水運の拠点として重きをなしていたことが想像できる。

 薪炭置場跡近くに明治天皇御駐輦趾碑が建てられている。この石碑は、大正六年(1917)十一月、大正天皇の即位を記念して建立されたもの。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋田 金足 | トップ | 秋田 雄和 Ⅱ »

コメントを投稿

秋田県」カテゴリの最新記事