史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

板橋 Ⅴ

2021年02月20日 | 東京都

(加賀公園)

 

加賀前田家下屋敷跡

 

 加賀公園は、加賀前田藩の下屋敷跡であり、築山の麓にそのことを示す石碑が建てられている(板橋区加賀1‐8)。

 延宝八年(1680)、加賀前田家は本郷(現・東京大学周辺)に上屋敷、駒込(現・本駒込6丁目周辺)に中屋敷、さらに下屋敷は、板橋宿に面する平尾邸に定めた。平尾邸は、約二十一万八千坪に及ぶ広大な敷地を有し、尾張・紀伊・水戸の御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷であった。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が置かれ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が設けられた。その規模は、本国金沢にある兼六園の約七倍の広さを誇った。

 平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、彼らが保養や散策のために訪れ、時には鷹狩りや花火などが行われた。幕末には園遊会が開かれ、その場に招かれた松平容保をはじめとする会津藩の人びとは邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現している。

 当邸は中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用された。また、その家族や家臣により送迎の場にもなっていた。

 邸内には与力を筆頭に五十人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していた。彼らは代々平尾邸に在籍し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などと娘と婚姻関係を結ぶ人もいた。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られる。

 幕末には加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った訓練を実施した。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っている。明治以降は、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用して火薬を製造する、板橋火薬製造所(のちに東京第二陸軍造兵廠)となった。

 

板橋区と金沢市との

友好交流都市協定締結記念碑

 

 加賀前田家下屋敷跡碑の傍らには、ステンドグラスをはめ込んだ板橋区と金沢市との友好交流都市協定締結記念碑が置かれている。この特徴的な記念碑は、金沢市にある尾山神社神門第三層のステンドグラスをイメージしたものである。

 

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