謹賀新年
(玉泉寺)
前回、玉泉寺を訪ねてから十年以上が経った。その時、見ることができなかった玉泉寺のハリス記念館(入館料四百円)とロシアのディアナ号の乗組員の墓所を訪ねるため、再訪した。ペリー艦隊水兵の墓は、いつの間にか屋根で覆われていた。

ストーブの煙突を出した石
向かって左の本堂壁面に、ストーブの煙突を出した穴、それを埋めた石が嵌め込まれている。安政三年(1856)十月七日のハリスの日記に、部屋にストーブを据え付けたことが記されている。日記によれば、ストーブは特許品で、フィラデルフィアのアボット・アンド・ローレンス商会の製品であったが、非常な粗悪品で、送風口を開けておいても瀉青炭が消えてしまったという。
ハリスの顕彰碑

ハリス記念館

ディアナ号乗組員の墓所
慰霊碑
ロシア使節プチャーチンが搭乗するディアナ号は安政元年(1854)十二月十一日に発生した安政大地震による大津波で下田湾にて大破した。その後、修理のために西伊豆に曳航される途上、沈没した。その際に死亡した三人のロシア人の墓所が、日露和親条約第三条に従い玉泉寺境内に設けられた。
向かって右が戸田で死去した下士官アレクセイ・ポショーチキンの墓。中央は地震により死亡したアレクセイ・ソボレフのもの。左は戸田で死亡した水平ワシーリー・バケーエフのものである。
また、三人の墓と少し離れたところに機関士フィリップ・ユーディンの慰霊碑がある。戸田号でロシアに帰国したプチャーチンは、安政五年(1858)アスコルド号で下田に再入港した。この時、下田稲田寺にて死亡したのがフィリップ・ユーディンである。岡山大学の保田孝一名誉教授によって人物が特定され、この慰霊碑が、平成十七年(2005)に建立された。
(宝福寺)

龍馬 風の夢
久しぶりに宝福寺を訪ねたところ、本堂前に「風の夢」と題した龍馬像が建てられていた。伊豆龍馬会に手によるもの。この龍馬は、精悍というか、頬がこけていて我々のイメージとは異なる龍馬である。
(下田八幡神社)
下田八幡神社
現在、弁天島にある金子重輔君碑は、品川弥二郎の発案で、品川自身も碑石を寄附するなど多くの経費を負担した。題字はやはり松陰門下の山県有朋。明治二十八年(1895)に完成したときは、下田八幡神社の境内左手の丘(現在、下田市民文化会館辺り)にあったが、のちに八幡社裏山に移され、昭和四十三年(1968)に三度目の引っ越しで現在地に移った(海原徹著「松陰の歩いた道」ミネルヴァ書房より)。
仁王像
下田八幡神社の神門に一対の仁王像が置かれている。我々の連想する仁王像といえば、怒りの表情をもった筋肉ムキムキ男であるが、この仁王像はちょっとユーモラスである。頭にはウサギの耳のような角があり、歯をむき出し、胸はあばら骨が浮き出ている。昭和初期まで参道に面したところに置かれていたらしい。
(下田屋旅館)
吉田松陰投宿の跡
嘉永七年(1854)三月十八日の午後、下田に入った吉田松陰と金子重輔は旅宿岡村屋(現・下田屋旅館)に草履を脱いだ。二階の奥座敷に陣取った二人は、昼間は何もせずごろごろしていたが、夜になると人目をしのぶようにして何度も出掛けた。彼らは岡村屋に八日間滞在し、米国艦船に近づく機会を伺っていた。
(泰平寺)
安政元年(1854)、ロシア使節プチャーチンと和親条約の交渉に当たった応接掛川路聖謨は泰平寺を宿舎にした。泰平寺は非公開。正門はかたく閉じられている。

泰平寺
(下田酒場 もり田)
現在、居酒屋となっているが、この場所にはかつて船宿角谷があった。文久三年(1863)、下田における勝海舟と山内容堂との宝福寺における会談の際、海舟や板垣退助らは船宿角谷に宿泊したと伝えられる。
船宿角谷跡
(安直楼)
安直楼は、米国領事ハリスに仕えたお吉が明治後、小料理屋を営んだ建物である。領事館に出仕したお吉は、以後「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消した。年月を経て「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむことになった。当家にはお吉愛用の遺品も保存されているそうである。

安直楼
(下田市民文化会館)
下田市民文化会館の前に1837年製のカノン砲が据えられている。
1837年製カノン砲
(ハリスの小径)

ハリスの小径碑
玉泉寺をさらに湾岸沿いに進むと、右手に「ハリスの小径」と書かれた看板に目に入って来る。入口には、ハリスの小径碑が置かれ、ハリスのレリーフがはめこまれている。
ここから一・五㎞ほど歩くと、吉田松陰上陸碑がある。最初は海岸沿いに整備された舗道が続くが、次第に道幅が狭くなり、最後は雑草をかきわけながら進まなくてはならない。

至誠通天碑
ハリスの小径の途中に、吉田松陰の座右の銘?である「至誠通天」と記された、比較的新しい石碑がある。参議院議長や埼玉県知事などを歴任した土屋義彦氏を顕彰するために有志により建立されたものらしい。
吉田松陰上陸地碑
柿崎弁天島から小船でペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に乗り付けた松陰と金子重輔は、海外渡航を断られ送り返された。松陰と重輔が上陸した地点がこの場所(瓜生崎)である。
この付近は釣り場となっているらしく、朝早くからたくさんの釣り人が自動車を停めていた。
(お吉ヶ淵)

お吉ヶ淵
お吉は、明治二十三年(1890)、稲生沢川に身を投げて、生涯を閉じた。四十八歳であった。お吉が自殺した辺りは、お吉が淵と呼ばれている。現在、川の水量は決して多くなく、とてもでないが、ここに身を投じても死に切れないのではないかと思ってしまう。

お吉地蔵
昭和八年(1933)、新渡戸稲造の篤志によって、お吉が淵の傍らに地蔵が建てられた。新渡戸稲造は、お吉が淵に詣で、お吉の霊を懇ろに慰めるとともに、お吉地蔵の建立を思い立ったという。稲造は、同年十月にカナダで開催された太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、病に倒れたため、この地蔵の完成を見届けることはできなかった。
(玉泉寺)
前回、玉泉寺を訪ねてから十年以上が経った。その時、見ることができなかった玉泉寺のハリス記念館(入館料四百円)とロシアのディアナ号の乗組員の墓所を訪ねるため、再訪した。ペリー艦隊水兵の墓は、いつの間にか屋根で覆われていた。

ストーブの煙突を出した石
向かって左の本堂壁面に、ストーブの煙突を出した穴、それを埋めた石が嵌め込まれている。安政三年(1856)十月七日のハリスの日記に、部屋にストーブを据え付けたことが記されている。日記によれば、ストーブは特許品で、フィラデルフィアのアボット・アンド・ローレンス商会の製品であったが、非常な粗悪品で、送風口を開けておいても瀉青炭が消えてしまったという。

ハリスの顕彰碑

ハリス記念館

ディアナ号乗組員の墓所

慰霊碑
ロシア使節プチャーチンが搭乗するディアナ号は安政元年(1854)十二月十一日に発生した安政大地震による大津波で下田湾にて大破した。その後、修理のために西伊豆に曳航される途上、沈没した。その際に死亡した三人のロシア人の墓所が、日露和親条約第三条に従い玉泉寺境内に設けられた。
向かって右が戸田で死去した下士官アレクセイ・ポショーチキンの墓。中央は地震により死亡したアレクセイ・ソボレフのもの。左は戸田で死亡した水平ワシーリー・バケーエフのものである。
また、三人の墓と少し離れたところに機関士フィリップ・ユーディンの慰霊碑がある。戸田号でロシアに帰国したプチャーチンは、安政五年(1858)アスコルド号で下田に再入港した。この時、下田稲田寺にて死亡したのがフィリップ・ユーディンである。岡山大学の保田孝一名誉教授によって人物が特定され、この慰霊碑が、平成十七年(2005)に建立された。
(宝福寺)

龍馬 風の夢
久しぶりに宝福寺を訪ねたところ、本堂前に「風の夢」と題した龍馬像が建てられていた。伊豆龍馬会に手によるもの。この龍馬は、精悍というか、頬がこけていて我々のイメージとは異なる龍馬である。
(下田八幡神社)

下田八幡神社
現在、弁天島にある金子重輔君碑は、品川弥二郎の発案で、品川自身も碑石を寄附するなど多くの経費を負担した。題字はやはり松陰門下の山県有朋。明治二十八年(1895)に完成したときは、下田八幡神社の境内左手の丘(現在、下田市民文化会館辺り)にあったが、のちに八幡社裏山に移され、昭和四十三年(1968)に三度目の引っ越しで現在地に移った(海原徹著「松陰の歩いた道」ミネルヴァ書房より)。

仁王像
下田八幡神社の神門に一対の仁王像が置かれている。我々の連想する仁王像といえば、怒りの表情をもった筋肉ムキムキ男であるが、この仁王像はちょっとユーモラスである。頭にはウサギの耳のような角があり、歯をむき出し、胸はあばら骨が浮き出ている。昭和初期まで参道に面したところに置かれていたらしい。
(下田屋旅館)

吉田松陰投宿の跡
嘉永七年(1854)三月十八日の午後、下田に入った吉田松陰と金子重輔は旅宿岡村屋(現・下田屋旅館)に草履を脱いだ。二階の奥座敷に陣取った二人は、昼間は何もせずごろごろしていたが、夜になると人目をしのぶようにして何度も出掛けた。彼らは岡村屋に八日間滞在し、米国艦船に近づく機会を伺っていた。
(泰平寺)
安政元年(1854)、ロシア使節プチャーチンと和親条約の交渉に当たった応接掛川路聖謨は泰平寺を宿舎にした。泰平寺は非公開。正門はかたく閉じられている。

泰平寺
(下田酒場 もり田)
現在、居酒屋となっているが、この場所にはかつて船宿角谷があった。文久三年(1863)、下田における勝海舟と山内容堂との宝福寺における会談の際、海舟や板垣退助らは船宿角谷に宿泊したと伝えられる。

船宿角谷跡
(安直楼)
安直楼は、米国領事ハリスに仕えたお吉が明治後、小料理屋を営んだ建物である。領事館に出仕したお吉は、以後「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消した。年月を経て「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむことになった。当家にはお吉愛用の遺品も保存されているそうである。

安直楼
(下田市民文化会館)
下田市民文化会館の前に1837年製のカノン砲が据えられている。

1837年製カノン砲
(ハリスの小径)

ハリスの小径碑
玉泉寺をさらに湾岸沿いに進むと、右手に「ハリスの小径」と書かれた看板に目に入って来る。入口には、ハリスの小径碑が置かれ、ハリスのレリーフがはめこまれている。
ここから一・五㎞ほど歩くと、吉田松陰上陸碑がある。最初は海岸沿いに整備された舗道が続くが、次第に道幅が狭くなり、最後は雑草をかきわけながら進まなくてはならない。

至誠通天碑
ハリスの小径の途中に、吉田松陰の座右の銘?である「至誠通天」と記された、比較的新しい石碑がある。参議院議長や埼玉県知事などを歴任した土屋義彦氏を顕彰するために有志により建立されたものらしい。

吉田松陰上陸地碑
柿崎弁天島から小船でペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に乗り付けた松陰と金子重輔は、海外渡航を断られ送り返された。松陰と重輔が上陸した地点がこの場所(瓜生崎)である。
この付近は釣り場となっているらしく、朝早くからたくさんの釣り人が自動車を停めていた。
(お吉ヶ淵)

お吉ヶ淵
お吉は、明治二十三年(1890)、稲生沢川に身を投げて、生涯を閉じた。四十八歳であった。お吉が自殺した辺りは、お吉が淵と呼ばれている。現在、川の水量は決して多くなく、とてもでないが、ここに身を投じても死に切れないのではないかと思ってしまう。

お吉地蔵
昭和八年(1933)、新渡戸稲造の篤志によって、お吉が淵の傍らに地蔵が建てられた。新渡戸稲造は、お吉が淵に詣で、お吉の霊を懇ろに慰めるとともに、お吉地蔵の建立を思い立ったという。稲造は、同年十月にカナダで開催された太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、病に倒れたため、この地蔵の完成を見届けることはできなかった。
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