(本門寺 つづき)
清雲院殿芳光日潜居士(阿部潜の墓)
阿部邦之助(諱は潜)は、天保十年(1839)、幕臣阿部遠江守正蔵の三男に生まれた。長兄は白河藩を継いだ阿部正外。慶応三年(1867)寄合から目付に進み、慶應四年(1868)二月、辞任したが、間もなく陸軍重立取扱を命じられた。この頃、近代的陸軍士官の養成を痛感し、建白書を草していたが、たまたま大阪より帰府していた江原素六の賛意を得て、慶應四年(1868)五月、徳川家の駿河移封が決まると直ちに献言し、沼津に士官養成のための学校設立が決定した。邦之助は自ら兵学校設立の大綱を決定し、教授の人選を終えて、九月には陸海軍関係者を東京より呼び寄せ、同年十二月、当時最新の内容と組織を誇る沼津兵学校を開校した。頭取に西周を招請したのも邦之助の識見による。明治二年(1869)正月、沼津奉行に任じ、八月には静岡藩少参事に進み、軍事掛を兼任。後、沼津を去って芸州に赴き、広島藩の兵学校設立顧問となった。
本覺院殿仁譲日種大居士(目加田種太郎の墓)
目加田種太郎は、旧幕臣。大蔵省主税局長、韓国財政顧問などを務め、枢密顧問官。男爵。妻は勝海舟の三女逸子。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/11/c78b1b7db9de360fd9688f7996e430e2.jpg)
清雲院殿芳光日潜居士(阿部潜の墓)
阿部邦之助(諱は潜)は、天保十年(1839)、幕臣阿部遠江守正蔵の三男に生まれた。長兄は白河藩を継いだ阿部正外。慶応三年(1867)寄合から目付に進み、慶應四年(1868)二月、辞任したが、間もなく陸軍重立取扱を命じられた。この頃、近代的陸軍士官の養成を痛感し、建白書を草していたが、たまたま大阪より帰府していた江原素六の賛意を得て、慶應四年(1868)五月、徳川家の駿河移封が決まると直ちに献言し、沼津に士官養成のための学校設立が決定した。邦之助は自ら兵学校設立の大綱を決定し、教授の人選を終えて、九月には陸海軍関係者を東京より呼び寄せ、同年十二月、当時最新の内容と組織を誇る沼津兵学校を開校した。頭取に西周を招請したのも邦之助の識見による。明治二年(1869)正月、沼津奉行に任じ、八月には静岡藩少参事に進み、軍事掛を兼任。後、沼津を去って芸州に赴き、広島藩の兵学校設立顧問となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/ce/ba54ff34c0fb6c12eda85079a81e4acf.jpg)
本覺院殿仁譲日種大居士(目加田種太郎の墓)
目加田種太郎は、旧幕臣。大蔵省主税局長、韓国財政顧問などを務め、枢密顧問官。男爵。妻は勝海舟の三女逸子。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます