史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

京都御所 Ⅴ

2016年08月10日 | 京都府
(清浄華院)


清浄華院


故従一位藤原俊克之墓(坊城俊克の墓)

 母が通う府立大学付属病院のちょうど向い側が清浄華院である。待ち時間に清浄華院の墓地を歩いた。
 坊城俊克の墓である。坊城俊克は、享和二年(1802)京都の生まれ。父は権大納言坊城俊明。文化十二年(1815)、叙爵。蔵人頭、右大弁を経て、嘉永三年(1850)、参議に進み、ついで左大弁を兼ね、安政四年(1857)には権中納言に、文久二年(1862)には権大納言に任じられ、元治元年(1864)、太宰権師を兼ねた。この間、安政四年(1857)に議奏、安政六年(1859)には武家伝奏に転じて文久三年(1863)まで在職した。さらに元治元年(1864)には武家伝奏に再任され、常に朝廷の要路にあった。議奏として日米通商条約問題に関する勅問に与ったのをはじめとして、条約勅許、将軍継嗣問題、水戸降勅事件等に関与し、武家伝奏としては和宮降嫁一件、将軍家茂の上洛等について朝幕間の折衝、応接に任じ、また文久元年(1861)の和宮の関東入輿に随従下向し、公武一和を機として武家伝奏任命の際の血誓の廃止を幕府に交渉して承諾させた。慶応元年(1866)それまでの功により従一位に推叙された。同年、六十四歳にて没した。


正二位前権大納言藤原朝臣言知卿之墓
(山科言知の墓)

 山科言知は、山科家二十五代当主。慶応三年(1867)七十八歳で没。





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