史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

室蘭

2015年11月28日 | 北海道
 壮瞥町の北の湖記念館のあとは、室蘭市石川町を訪ねる。伊達市から市境を越えれば、そこが石川町である。ここは北の湖の弟弟子で、大関となった北天佑の出身地である。北天佑も若くして大関に昇進し、いずれ横綱と期待されたが、結局上位には強いが、下位にもろい、ムラッ気が最後まで改善されず、横綱にはなれなかった。故に「未完の大器」といわれた。引退後は二十山親方として後進の指導にあたったが、平成十七年(2006)、肝臓癌により逝去。四十五歳という若さであった。北天佑と同じ年である私にとって、彼の死は衝撃的であった。

(仙海寺)


仙海寺

 仙海寺の前の急な坂は、室蘭の語源となったモルエランの坂という。その途中に、崖にへばりつくようにして仙海寺がたたずんでいる。仙海寺の墓地は、そこからさらに数分坂を上らなくてはならない。


石川光親之墓

 石川光親は、仙台角田藩主石川家三十七代石川義光の子で、最期の領主邦光の弟。明治六年(1873)十三歳のとき、室蘭に移住した。その後、慶應義塾に学ぶため一時室蘭を離れたが、旧家臣からの懇請もあり、明治十四年(1881)再び室蘭に移住した。室蘭開拓に大きく貢献し、のちに藍綬褒章を受勲した。


救療院偏譽周甫居士(野村周甫墓)

 野村周甫の墓は、半ば草木に埋もれるように、目立たぬ場所に置かれている。
 野村周甫は、南部藩の医師であったが、奉行の命令を受けて、安政三年(1856)室蘭に赴任した。医療院を開き、和人、アイヌの別なく治療をした。貧しいアイヌ人からは治療費を受け取らなかったといわれる。文久三年(1863)五月、八十三歳で死去。人々はその死を悼み嘆いた。墓の台座には、室蘭市衛生会による遺徳を偲ぶ文章が刻まれている。

(東蝦夷地南部藩ムロラン陣屋跡)


史跡 東蝦夷地南部藩陣屋跡
モロラン陣屋跡


陣屋跡の配置 鉄砲武者など

 幕末、南部藩は箱館から幌別にかけての東蝦夷地警備を幕府に命じられ、湾内を望むベケレオタ(白い砂浜の意)の地に、方形で二重の土塁と濠からなる出張陣屋を築き、防衛に当たった。この陣屋には、安政三年(1856)に築かれ、慶応四年(1868)に廃棄されるまでの十三年間、南部藩士が常駐した。内陣には、藩士の詰所や長屋などの建物があった。発掘調査では、建物の礎石や石畳の通路が発見されている。内陣の後背には火薬庫が設けられ、今も残る杉林も、藩士の手により当時植えられたものである。

(満冏寺)
 満冏寺の本堂前に、箱館戦争における会津藩士の戦死者を弔うために明治十四年(1881)に建てられた碑がある。この碑の側面には、戦死者の名前がぎっしりと刻まれている。ただ、ここに刻まれた名前の中で「幕末維新全殉難者名鑑」と合致したものを見出せない。


満冏寺


吊魂碑

(室蘭文化センター)


本多新翁碑

 室蘭文化センターの一角に本多新の顕彰碑が建てられている。
 本多新は、出羽(現・山形県)十日町の出身で、農家の長男に生まれた。本多新は家業を弟に譲り、妊娠中の妻と三歳になる息子を捨てて、江戸に出て安井息軒に入門した。ここで新は自由民権への目を開かれた。明治五年(1872)、札幌本道開削工事の測量担当として函館を経て、室蘭に入った。政府に対して「国会開設建白書」など数々の建言書を提出している。明治十四年(1881)の自由党結成大会には、北海道からただ一人参加。また北海道民に選挙権がないことを怒り、明治二十二年(1889)には「本道より国会議員選出するの義建言」を黒田清隆総理に送った。晩年はリウマチ、心臓病に悩んだ。大正三年(1914)、七十二歳にて死去。

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