史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日暮里 ⅡⅩⅦ

2018年12月28日 | 東京都
(谷中霊園つづき)


従五位勲五等小松済治君之墓

 小松済治は馬島瑞謙の長男として弘化三年(1846)に生まれた。山本覚馬に蘭学を学び、十七歳で長崎に行き、西洋医学を修めた。その後、ドイツに留学して法律を学んだ。明治二年(1869)帰国して紀州候の顧問。明治四年(1871)、東京裁判所二等書記官の時、岩倉使節団に選ばれ渡欧米。大久保利通、伊藤博文に随行して日本に戻った。明治二十六年(1893)、死去。四十七歳。墓碑は山内香渓の撰、中林梧竹の篆額。【乙6号3側】


会津藩馬島瑞謙先生之墓

 馬島瑞謙は文化八年(1811)生まれ。父は馬島瑞延。蘭学を志し、安政六年(1859)、外国奉行水野筑後守が北米合衆国に出航する際、瑞謙もまた藩命で随行するため、江戸に滞在中、にわかに発病し、同年八月、和田倉藩邸にて没。【乙6号3側11番】


近藤幸殖 近藤捨子之墓(近藤織部の墓)

 近藤織部は文化十年(1813)、伊勢亀山の生まれ。諱は幸殖。詩を梁川星巌、国学を鬼島広蔭に学び、佐々木弘綱、井上文雄、藤森弘庵らと交わり、国学者でありながら嘉永三年(1850)、藩の家老職を継いだ。藩政に関わってからは有為の人材養うため抜擢して江戸に送り、万延元年(1860)藩の兵制改革を行い、文久三年(1863)、将軍家茂上洛に当たって三条実美と会い、藩情を述べて報功を誓い、また内意を黒田頑一郎に含め、諸藩志士と結んで他日を期した。朝廷の親兵設置に際して小藩にかかわらず藩士九名を選んで参加させた。これがため幕命により頑一郎とともに国に蟄居させられた。慶応四年(1868)正月、幽閉を解かれ軍事奉行となって藩政の刷新に力を注ぐも、保守派のため再び幽閉された。翌二年(1869)、朝命にてこれを解かれ、同年九月、亀山藩大参事に任じられた。明治四年(1871)、廃藩後閑地についた。明治二十三年(1890)、東京で没。年七十八。


正七位岩田三蔵墓

 岩田三蔵は大蔵官吏。文政五年(1822)生まれ。下総香取郡出身。幕府に出仕し、炮兵指揮官となり、のち御徒目付。慶応二年(1866)、函館奉行小出大和守秀実を正使とする国境協定のための遣露使節に随行。マルセイユ・パリを経てペテルブルグに赴いた。交渉終了後、パリで徳川昭武に会い、マルセイユ経由で慶応三年(1867)五月、帰国。維新後、民部省出仕。印刷事監工審査。明治十一年(1878)印刷局一等技手。明治二十年(1887)没。六十六歳。【乙3号3側】


伊豫 西園寺家累代之墓

 西園寺公成(きんなる)は愛媛県宇和島出身。宇和島藩小姓頭、目付役など歴任。藩主伊達宗城に従い伏見の役に従軍。堺でフランス人を殺害した土佐藩士が切腹した際、検視役をした一人。明治三年(1870)大阪府大参事。のち伊達家家令、第一国立銀行・日本鉄道会社等の取締役を歴任。明治三十七年(1904)没。【乙11号9側】


大橋氏巻之墓

大橋巻子は文政七年(1824)、下野宇都宮の豪商大橋淡雅の長女に生まれた。天保十四年(1843)十八歳のとき、佐藤一斎門下の逸材、訥庵清水順蔵を夫に迎えて大橋家を相続した。尊攘学者の夫と交友志士を助援。文久二年(1862)の坂下門外の変では常陸水戸、下野宇都宮提携志士たちの密会所として自邸を提供し、資金調達と志士隠匿に腐心した。襲撃決行三日前、宇都宮藩士岡田慎吾らの企てた別件が発覚し、訥庵も連座して逮捕された。巻子は素早く証拠書類を焼却し、坂下事件の漏洩を防いだ。奉行所の苛烈な尋問にも屈せず、訥庵の事件首謀者たる嫌疑の立証を不可能とした。著書「夢路日記」は天下に流布し、志士の感動をよんだ。明治二十四年(1891)、年五十八で没。【甲9号17側】


訥庵大橋君之墓

 大橋訥庵は文化十三年(1816)、兵学者清水赤城の四男として江戸に生まれた。下野宇都宮の豪商大橋淡雅の養子となった。名は正順。字は周道、曲洲、通称は順蔵、号は訥庵。幼少時より文武一致の実学を学び、二十歳のとき佐藤一斎に入門。一斎の紹介で大橋淡雅の娘巻子と結婚した。日本橋に「至誠塾」を開き、また宇都宮藩主はじめ諸士に尊攘思想を講じた。安政四年(1857)に著した「闕邪小言」四巻により天下に訥庵の名を知られることになった。文久二年(1862)、老中安藤信睦を襲った事件では、常陸水戸、下野宇都宮市史提携の黒幕となり、事件後、義弟菊地教中ともども逮捕投獄された。出獄したものの数日後、文久二年(1862)七月十二日、死去。年四十八。【甲9号17側】


淡雅大橋知良之墓

 大橋淡雅は寛政元年(1789)の生まれ。初め医者を志したが、十五歳のとき宇都宮の豪商菊地家(佐野屋)の養子となるや、商才を発揮し、文化十一年()正月、江戸日本橋元浜町に借地して商売を始めて、一代にして巨富を成した。営業品目は呉服、木綿、質屋、両替などで、金貸しも行った。渡辺崋山をはじめ当代一流の文人墨客と交遊し、また自らも書筆に長じ、鑑定を能くした。菊地家の養子でありながら、大橋姓を名乗り、その後嗣に「商人は不都合」として大橋訥庵を娘巻子の婿とした。後年の坂下門外の変の遠因はここに端を発している。嘉永六年(1853)、年六十五で没。【甲9号17側】


安井顕比之墓

 安井顕比(あきちか)は、天保元年(1830)の生まれ。加賀藩士。改作奉行、軍艦奉行等を歴任。文久・元治の激動期に加賀勤王党を支援した。明治元年(1868)、上洛すると太政官御用掛に任用された。国家老本多政均が入京すると、長州藩の大村益次郎と引き合わせて、長州藩との連携を画策した。その後、内国事務局権大参事として新潟に赴き、北越戦争では軍務局を兼ねた。明治三年(1870)、金澤兼権大参事。藩知事の前田慶寧の命で利嗣の教育係となった。明治六年(1873)、三条実美に蝦夷地開拓の建議書を出した。その後、官を退き藩の史料編纂に従事した。明治二十六年(1893)、六十四歳で没。【甲新13号39側】

(南泉寺)


花俣家累世之墓
(花俣鉄吉の墓)

 森まゆみ著「彰義隊遺聞」(新潮文庫)によれば、彰義隊士花俣鉄吉の墓らしい。
 花俣鉄吉は、上野戦争から二か月ほど経った慶応四年(1868)七月下旬、天王寺詰組頭の一人であった花俣鉄吉は、根津に潜伏していたが、廓の総門辺りで見つかり、官軍数十名になぶり殺しにされたという。大工に変装していた花俣は、匕首(あいくち)一本で抵抗したが、無残にも斬られてしまった。

(長安寺)


長安寺

 長安寺に明治初期の日本画家狩野芳崖の墓がある(台東区谷中5‐2‐22)。
 狩野芳崖は、文政十一年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐(せいくう)の長男に生まれた。十九歳のとき江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎と称された。明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖も窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。明治十七年(1884)第二回内国絵画共進会で褒状を受けた。狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟、雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。代表作に「悲母観音図」「不動明王図」(いずれも重要文化財)がある。明治二十一年(1888)、天心、雅邦らとともに東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十一歳で歿した。墓所は、長安寺墓地の中ほどにある。


東光院臥龍芳崖居士墓(狩野芳崖の墓)


狩野芳崖翁碑

 本堂前には狩野芳崖の略歴、功績を刻んだ石碑が建てられている。大正六年(1917)建立。撰文は三島毅。

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