史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「上杉鷹山 「富国安民」の政治」 小関悠一郎著 岩波新書

2022年08月27日 | 書評

上杉鷹山といえば、名君中の名君。史上もっとも有名な殿様の一人である。

しかし、鷹山の事績は何かと改めて問われると、正確に答えられる人は皆無に等しいだろう。恥ずかしながら私もその一人であった。本書を読んで初めて鷹山の名君たる所以が理解できた。

鷹山が名君となったのには、彼を支えて実際に米沢藩の藩政を主導した、竹俣当綱(たけのまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)という二人の家老の存在を忘れるわけにいかない。実際に藩政を改革し、米沢藩の富強を実現したのは彼らであり、彼らのもとで奔走した北村孫四郎らの実務家であった。

本書では、鷹山や竹俣が学んだ「産語」という書物から書き起こしている。「産語」の著者は、荻生徂徠の高弟太宰春台(1680~1747)である。春台は経書の解釈学のみならず、政治・経済を論じる経世論の分野でも第一人者であった。彼の主張するところは、経済の問題を脇に置いて、礼儀や道徳を唱えても、天下の人の礼儀や道徳が正されることはない、ということである。つまり、まずは衣食足りて初めて礼節を語ることができるという主張である。それまでの学問というのは、得てして仁義礼智忠信孝悌を説くが、その前に庶民を富ませよというのである。日本思想史家によれば、春台のこの経世論こそ我が国初めての「富国強兵」論だという。

「産語」で展開される「富国強兵」論の主要な議論は「尽地力之説」である。単純にいえば、五穀にとどまらない様々な産物を土地の特性に応じて生産すべきだという言説である。一見農耕に適さない土地であっても、必ず何らかの地力を備えているので、無尽蔵である土地の力を最大限に引き出すことで、領地は潤うという思想である。今日的にいえば、総資本利益率とか使用資本利益率に近い概念かもしれないが、当時は資本といえばほぼ土地しかない時代であり、如何に領地をフル活用するかという考え方に至ったということだろう。

莅戸善政は、この考え方を実務的に発展させ、農民に養蚕・桑栽培を奨励した。その結果、幕末には米沢藩は「天下の富強の国」とまで称されるほどになった。そしてその改革を推進した鷹山は「名君・賢宰」として語り継がれることになった。

鷹山も最初から名君だったわけではなく、若き藩主は、「御政事には御心はまりせられず」という有り様で、行状を見かねた莅戸善政は、「近習との会話は鳥と馬との御評判や無駄話ばかりで「御はまり」が見られない。諸役人の鼓舞も十分ではない。細井平洲の講義を聞いても今日の御政事に引き合わせの御論もない。身なりは江戸風の色男の風体に見える。などなど、かなり口うるさい。生半可な若者であれば、叱責を無視して遊び呆け、うるさい側近を遠ざけてしまってもおかしくない。

莅戸は、鷹山に藩主としての心得を厳しく説き、諸集団、階層の人々からどのように見られるかを常に意識し行動することを要求し、慢心しおごった振る舞いを厳しく戒めた。莅戸は、君主はどうあるべきかを常に問い続け、藩主の誠実な言動と、その言わば「見える化」が必要だと確信していた。鷹山は、その期待に見事に答えたといえよう。

鷹山の言行録である「翹楚偏」は、鷹山の五十六の逸話を収録している。鷹山が責馬をしている際に、小便をしていた者に対し「責馬を見て居りし故に小便をする者を見る暇もなかりしぞ」と述べてその場を穏便に収めたとか、藩内に大規模な倹約令を発布した時、自ら一汁一菜と定め四民の手本となるように率先的行動をとったとか、一つひとつはさほど際立った逸話はない。それでも「翹楚偏」が「御家の為、御国民の為」という鷹山の姿勢を広く周知し、鷹山=名君というイメージを受け付けるのに大きな役割を果たした。莅戸は、人心を統合するためには、単に君主がすぐれた徳をそなえていればいいわけではなく、そのことを積極的に顕示していくことが肝要、と考えたのである。

「翹楚偏」は江戸時代後期、「上杉鷹山公の賢徳」を示す言行録として広く読まれ、各地の学者・藩士たちの間に出回った。現在にも多くの写本が残されている。「翹楚偏」の流布こそが、鷹山=名君という評価を確定し、定着、浸透させた大きな要因となった。ただし、「翹楚偏」を読めば、米沢藩の藩政改革が何故成功したのか、藩政改革がどのように進められたのか、という肝心な情報を理解できるというものではない。

鷹山や竹俣当綱、莅戸善政、そして善政の子である政以らが目指した「富強」は、言葉は似ているが明治政府がスローガンとして標榜した「富国強兵」とは本質的には異なるものである。

鷹山が主導した米沢藩の改革は、「富強」「兵農合一」「復古」「仁政」などが投影されたものである。その本質は、国民(藩領民)の暮らしが潤っているかどうかというところにあり、近代日本が経済力、軍事力で欧米諸国に追いつくことを目的とした「富国強兵」とは対照的なものであった。つまり、江戸時代の富国論は「士民を富ます道」を基本としたものであった。鷹山の改革を知ることは、近代日本が忘れた何ものかを再発見することなのかもしれない。

 

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